15歳で家出同然に石垣島を出た少年が年商160億円、全国に80店舗を構える大手菓子メーカーを一代で築いた。エーデルワイス会長の比屋根毅さんは立志伝中の人物だ。
8歳で終戦を迎えたが、食料は乏しく、山中で食べる物を探す日々だったという。「この海は世界に通じている」と外の世界に憧れ、那覇から大阪に渡り、菓子製造会社に勤めた。面接で「君、日本語話せるか」と聞かれて負けじ魂に火がついた。「内地の人に負けない。日本一、世界一になる」。腕を上げ、菓子のコンテストで何度も優勝した。
29歳で独立し、念願の店を尼崎市に構えたがさっぱり売れず、たちまち行き詰まった。店を畳む決心をして材料をかき集めてケーキを焼き、隣近所に配った。すると早朝からシャッターをたたく音がする。おいしさに感激した人たちが買いに来てくれたのだ。店は繁盛した。
「エーデルワイス」のブランド名でフランチャイズ事業にも乗り出した。1972年に工場を建設。最大150店舗を構えるまでになったが、比屋根さんは先を見据えていた。コンビニエンスストアの台頭だ。
「菓子を1個売りしているのを見て、量産型はもう売れない、高級化しないと生き残れない」と考えた。社内中が反対する中、10年かけてフランチャイズ店を全廃し、デパートや専門店で高級菓子を直接販売する業態に切り替えた。デパートにガラス張りの厨房(ちゅうぼう)を設置し、菓子をつくる姿を見せて販売する形式は、比屋根さんが日本で初めて取り入れたものだ。
故郷沖縄への思いは強かったが、自身を厳しく律するが故か、ルーズさを嫌った。同郷人だけで群れることもなかった。そのころ沖縄からの採用をやめていたのも「沖縄の子は2年もたない。辛抱強くないし、親もすぐ帰ってこいと言う」と手厳しかった。
一方、ふるさと石垣市には小中学生への図書費を贈り続け、講演では「外の世界を見てほしい」と語り掛けた。
2014年に取材で伺った際、尼崎市のエーデルワイス本社にある世界の菓子道具を集めたミュージアムを見せていただいた。菓子の焼き型やクリームの絞り口…。比屋根さんの職人としてのこだわりがぎっしり詰まっていた。
「どこにも負けないお菓子を、と常に考えている」。そのために体を鍛え、お礼状は深夜でもその日のうちに書く…。仕事の心得を一通り語った後、石垣の話になった。12歳のころ、山で向かってきたイノシシを倒したそうだ。「こめかみを突いたら倒れたよ」と笑う顔は島のウーマクー少年に帰ったかのようだった。(編集局次長兼報道本部長・島洋子)
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高級洋菓子メーカーエーデルワイス(神戸市)の創業者で代表取締役会長の比屋根毅(ひやね・つよし)さんは4日に死去。82歳。石垣市出身。通夜と葬儀は近親者のみで行った。後日、お別れの会を開催する予定。