クマヤーガマ(北谷) 数百人避難「砂辺の守り神」 暗闇を抜け広がる空に安堵<記者が歩く戦場の爪痕>


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米軍上陸地の砂辺にあるクマヤーガマを案内する砂辺郷友会の照屋正治さん=8日、北谷町砂辺

 特攻艇秘匿壕に続き訪れたのが、北谷町砂辺の「クマヤーガマ」だ。

 那覇市を中心に沖縄の島々が米軍の大空襲を受けた1944年10月10日、北谷村(当時)砂辺の住民は集落内にある自然壕「クマヤーガマ」に逃げ込んだ。ガマは石灰岩台地が浸食されてできた鍾乳洞で全長は約40メートルあった。「砂辺部落の人々の命の守り神」。町が発行した戦跡の資料にはそう記されていた。

 ガマを管理する砂辺郷友会の照屋正治さん(54)の案内で中に入った。コケに足を取られそうになりながら降りていく。さぞかし息苦しいところだろうと想像していたが、思っていたよりもはるかに広かった。梅雨の雨続きでじめじめした外気の影響を受けず、中は少しひんやりと感じた。

 照屋さんによると、10・10空襲後に、住民らが空襲時に逃げ込む防空壕として使うためにガマの中を掃除をしたり通気口を開けたりして整備した。現在も井戸や住民たちが開けた通気口の跡が確認できる。北谷町史には「鍋やカマや布団なども持ち込んでいた」「おじいさんたちは、そこで棒術の稽古などをした」と、当時のガマの中の様子が記されている。

 米軍の本島上陸が近づく45年3月27日ごろ、現在の宜野湾市嘉数地域一帯に配置された石部隊(第62師団)の兵士が訪れ、北部に避難するよう指示を出した。

 「砂辺史」によると数百人がガマに避難していた。換気も悪く湿度も高くなり、衰弱する人もいたというが「(軍の指示に従い)上陸前には全員が避難したので、ここでは誰も亡くなっていないんですよ」と照屋さんの説明を受け、少しほっとした。ただ、住民らが砲弾の飛び交う中、命懸けで北部へ移動した苦労を考えると、その気持ちはすぐに消えた。

 地上から約3メートルほど下にあるガマは、今でこそ階段があるものの出入り口は落差がある。今は平和学習時に使用する電灯が設置されているが、中からは外の様子が全く分からず、当時は真っ暗闇だったことが想像される。ガマの出口が見えてくると安堵(あんど)感が押し寄せた。

 4月1日、米軍は砂辺など沖縄本島中部の西海岸から上陸。激しい地上戦が幕を開けた。戦後、砂辺は集落全域が米軍に接収され、クマヤーガマの入り口は米軍に埋められた。56年に返還されたが、付近は敷きならされ、住宅地となった。その後、89年に住民の証言で入り口が発見され、郷友会により発掘調査が行われた。現在は郷友会が管理し、修学旅行生や地域の学校が平和学習で利用する時に開放している。


<用語>クマヤーガマ

 北谷町砂辺集落の南端にある標高約7メートルの石灰岩台地が浸食されてできた鍾乳洞。全長40メートルで三つの洞穴からできている。「閉じこもる」という意味の「クマヤー」が名前の由来。1989年の発掘調査で、ヒスイやかんざしなどの装飾品のほか先史時代の人骨も発見されている。


<記者の目>平和脅かすもの あらがい続ける 新垣若菜(中部支社報道部)

新垣若菜(中部支社報道部)

 クマヤーガマにいたのは1時間にも満たなかったのに、知らず知らずのうちに緊張していた。鍾乳洞のつららから滴る水のせいか、めったにかかない手汗のせいだろうか、メモを取るノートが波打つようにふやけていた。

 秘匿壕もクマヤーガマも外に出た時、ただそこに空が広がっているだけでうれしかった。75年前、住民らが見上げる空は恐怖の対象だった。戦争で傷ついた人の心を癒やすことはできない。ただ今の豊かな世を手放しで受け入れることに抵抗がある。平和を脅かす全てのものにあらがい続けたい。取材を通して、そう感じた。

 (2017年入社 34歳)