「家族がようやく一つに」「長年の夢だった」 戦争で失った弟、父… 戦後75年を経て「平和の礎」に刻銘


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サイパンで弟の高志保鴻さんと俊一さんを亡くした崎山稔さん。仏壇には2人の名を記した位牌がある=3日、神奈川県藤沢市(本人提供)

 国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなった全ての人々の名前を刻む糸満市摩文仁の「平和の礎」に16日、新たに追加される30人の名前が入った刻銘板が設置された。遺族らは「家族がようやく一つになれた」「ほっとした」と話し、戦後75年の節目の年に、亡き人へのそれぞれの思いを胸に刻んだ。

 1944年6月18日にサイパンで家族6人を失った神奈川県在住の崎山稔さん(80)=当時4歳、旧姓高志保=は、弟の高志保鴻(こう)さん=当時2歳=と俊一さん=当時0歳=の2人がようやく「平和の礎」に刻銘された。これまで両親と姉、兄の4人が刻銘されたが、弟2人の情報が乏しかったため、申請が遅れたという。崎山さんは「これで本当に家族が一つになれた」と感慨深げに語った。

 35年、崎山さんの両親は親戚を頼って那覇市久米からサイパンに渡った。崎山さんを含め、兄弟5人全員がサイパンで生まれた。44年にサイパンで日米両軍の戦闘が激しくなり、家族全員が巻き込まれ命を落とした。崎山さんは米軍の孤児収容所に送られ、後に一緒に収容所にいた叔母と日本に帰国した。12歳で叔母の養子となり、名字も高志保から崎山に変わった。

 平和の礎が完成した当時、叔父が崎山さん一家の情報をそろえて刻銘を申請したが、鴻さんと俊一さんの情報だけがなく、一緒に申請できなかった。

 残された弟2人をなんとしても刻銘したいという崎山さんの思いを受け、娘の桑原直子さんが自宅にある弟2人の名前が記された位牌などを証拠として、県や那覇市に追加刻銘を申請した。今年、ようやく願いがかなった。

 崎山さんは「2人の弟との思い出はほとんどないが、追加刻銘ができ本当によかった。家族がようやく一つになった」と喜んだ。

追加刻銘された父・〓那さんの名前に触れる上地德於さん=16日午後、糸満市摩文仁の「平和の礎」

 節目の年「ほっと」 上地さん 父の名なぞる

 「やっと長年の夢が実現した」。父・〓那(とな)さんの名前が刻銘された上地德於(とくお)さん(86)=那覇市繁多川=は16日、平和の礎を訪れ、感慨深げに父の名前を見つめ手を合わせた。

 上地さんは旧下地町(現宮古島市)出身。「お父さんっ子だった」と当時を振り返る。〓那さんは1944年ごろ、徴用されていた宮古島の飛行場で作業中に熱病を患い、49歳の若さで命を落とした。上地さんは疎開先の台湾で父の死を伝え聞いたが、宮古島に戻るまで死を受け入れられなかったという。

 疎開先から戻り、「父に会いたい」と話すと母のカニメガさんは泣き崩れた。帰郷すると信じていた兄・盛榮さんも中国大陸で戦死した。

 戦死した盛榮さんは平和の礎に刻まれていたが、〓那さんの名前はなかった。「父の名も刻銘しないといけないと思っていた。仕事に忙しく、申請する方法も分からなかった」と話す。娘の知人の助けもあって、戦後75年の節目を迎える今年、刻銘にこぎ着けた。「自分が元気なうちに刻銘されて最高だ。ほっとしている」と語った。

※注:〓は戸の旧漢字