161・8高地陣地(中城)聖地から激戦地に 8割120人が戦死<記者が歩く戦場の爪痕>


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戦闘指揮所内で中城湾方向を指さす中城村教育委員会の喜納大作さん(奥)=10日、中城村北上原

 切り立った頂上からは東海岸の中城湾や南部の知念半島、西側は慶良間諸島を見渡せる。米軍の動きを監視するには最適な場所だったのだろう。中城村北上原にある県消防学校裏の丘は沖縄戦時、日本軍の「161・8高地陣地」が築かれた。

 村史や米陸軍省戦史局編の「沖縄戦 第二次世界大戦最後の戦い」などの文献によると、米軍上陸3カ月前の1945年1月ごろ、日本軍の独立歩兵第14大隊が住民を動員し、陣地を造った。地元の石工5~6人と住民数十人が参加した。「161・8」は標高(メートル)を表す。

 丘は中城城跡へつながる中城ハンタ道から入る。「御願毛(うがんもー)」と呼ばれ、奥間の発祥地とされる。

 登り道を数百メートル行き、5分程度で頂上付近に着いた。指揮所に至る道は舗装されているものの、草に覆われ歩きにくい。拝みをする香炉が置かれた大きな岩が頂にあり、その上に米軍の動きを監視した戦闘指揮所がある。

日米両軍で熾烈な戦闘があった戦闘指揮所(右)(OKINAWA THE LAST BATTLEより)

 指揮所は老朽化のため、普段は入れないが、村教育委員会の許可を得て、ほぼ垂直の岩場を登って進んだ。指揮所は切り出した石灰岩で築かれており、日本軍は住民に「自然の岩に似せるよう」指示したという。外側はごつごつしているが、内側は白く切断された平面となっている。

 この場所に陣地を築いたのは、本島中部に上陸した米軍を攻撃し、南進を遅らせるためだった。村の戦跡ガイドブックなどを作った村教委の喜納大作さん(36)は「なるべく見つからないように敵の様子をチェックし、進軍を遅らせる機能があった」と解説する。

 配備された日本兵は約150人。4月5日から6日にかけて日米両軍の激戦が展開され、約120人の日本兵が命を落とした。

 入り口は1カ所、各方面向けに銃眼とみられる窓が3カ所ある。床面積約2畳(4平方メートル)ほどの広さで、天井までの高さは170~190センチ。コンクリート製の天井は剥がれ、鉄筋代わりに使用された馬車軌道とみられるレールがむき出しになっている。

 丘一帯は、敵から身を隠しながら移動する塹壕が掘られた。消防学校裏手は、塹壕跡とみられる溝がT字路のような形で残る。1メートルほど深さがあったとみられるが、今は土で埋まり数十センチほどの深さしかない。

 指揮所の真下は、自然洞窟を活用した地下壕があった。入り口や銃眼が残るが、大部分が埋没し広さなどは不明だ。

 村は2013年度、陣地を戦跡として村初の文化財に指定し、18年度は指揮所内を鉄骨で補強し周辺を舗装した。喜納さんは「指揮所は突貫で造られ、何百年も耐えることを考えていない。どういう形で保存するか課題はある」と話す。

 地域の聖地でもある場所が陣地に変えられ、激しい戦闘で焦土となったふるさと。当時の住民の思いを想像するといたたまれなくなる。配置された日本兵の5分の4が死亡した丘で、静かにたたずむ指揮所が戦争の悲惨さを物語っている。心にずしんと重くのしかかった。


<記者の目>のどかな風景 変えぬように 金良孝矢(中部支社報道部)

金良孝矢(中部支社報道部)

 中城村が3月に作成した戦跡を紹介するガイドブックとマップを手に、初めて161・8高地陣地を訪れた。戦闘指揮所が当時の形をほぼ保っている貴重な場所だ。多くの戦跡が区画整理などで消滅したり、老朽化したりする中、現存する戦跡を記録し、知らない人に紹介したかった。

 戦闘が激しくなる前、丘周辺では、陣地構築していた日本兵と住民が交流する姿もあったという。今と同じく野鳥の鳴き声が響き、本来はのどかな場所だったはず。そんな風景を一変させる戦争を二度と繰り返してはいけない。

 (2012年入社、30歳)