奉安殿・忠魂碑(沖縄市) 皇民化の象徴、残る威圧感 菊花紋には弾痕か<記者が歩く戦場の爪痕>


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奉安殿の内部を説明する沖縄市立郷土博物館の縄田雅重さん(左)=17日、沖縄市知花

 沖縄市知花、住宅街の間にある芝生の上に、高さ約4メートルの鉄筋コンクリートの建造物がある。戦前、美里国民学校の敷地にあった奉安殿だ。天皇・皇后両陛下の御真影(ごしんえい)(写真)を保管していた。正面の扉などの一部を除き、戦前の姿を残している。正面上部に銅製の菊花紋が鈍い光を放つが、下半分は破損している。沖縄戦で銃弾を受けたとみられている。壁面にもいくつかのくぼみがあり、弾痕と考えられている。

 沖縄市立郷土博物館の縄田雅重文化財係長は「この地域で戦闘があったという証言は聞いていないが、弾痕であれば沖縄戦の様相を表すものだ」と語る。奉安殿の内部の壁は黒く塗られ、今は空っぽだが当時は木製の神棚があったと考えられている。そこに御真影が置かれていたのだろう。当時の学校職員は御真影の厳重な管理が義務付けられ、破損や盗難があると懲戒処分となることもあった。

 子どもたちは奉安殿の前を通るときには最敬礼を求められた。祝日や記念日に校長、教頭が白い手袋をして奉安殿の扉を開け、教育勅語を読み上げた。扉が開かれている間は頭を上げてはならなかった。「沖縄市史」5巻(戦争編)には当時、小学生だった人々の証言が記録されている。

 「教育勅語を読み上げている間は全然見てはいけないよ。みんなウッチントゥーして(こうべを垂れて)、鼻ヒーヒーしながら(鼻水を抑えながら)聞いていたさ」

 「前を通る時には礼をする。そうしないと『天皇陛下からバチ当たる』と言われていた」

奉安殿について説明をする沖縄市立郷土博物館の縄田雅重さん(右)。内部に「EXIT」の英文字が書かれていた=17日、沖縄市知花(喜瀬守昭撮影)

 奉安殿のすぐ近くに忠魂碑も残っている。戦地で犠牲になった兵士を顕彰するため、1937年に建造された。これもコンクリート製の頑強な作りで、本体と台座を合わせた高さは約4・5メートル。かつての運動場から見上げる位置にある。日中戦争の時には村から戦死者が出るたび、忠魂碑の前で葬儀が行われた。

 皇民化教育と、国を挙げて戦争に突入する体制づくりを奉安殿と忠魂碑が支えていた。美里国民学校はその後、日本軍の兵舎として使われ、子どもたちは防空訓練や壕堀り作業に駆り出された。御真影は戦局悪化を受けて各学校から集められ、45年6月に羽地村の大湿帯で焼却された。

 戦後、GHQ(連合国軍総司令部)が出した「神道指令」により、各地の奉安殿、忠魂碑は破壊された。しかし美里の奉安殿周辺は米軍が接収してキャンプ・ヘーグとなり、共に壊されず現存している。奉安殿は米軍が倉庫として使っていたとも言われ、内側の上部には「EXIT」(出口)と書かれている。

 市史に記録されている証言には、空襲や艦砲射撃の中で死体をかき分けて避難した体験談もある。皇民化教育の末路に悲惨な沖縄戦があった。縄田さんは「戦跡は間近で見ると、資料では分からない大きさや威圧感などを肌で感じられる。体験者が減っていく中で重要性は増している」と語った。


<メモ>奉安殿・忠魂碑

 奉安殿は1935年前後に建造され、天皇・皇后両陛下の御真影(写真)と教育勅語が保管されていた。忠魂碑は戦死した兵士の魂を顕彰するため、37年に建造された。奉安殿と忠魂碑がそろって現存するのは県内では沖縄市のみ。97年に市指定文化財となった。奉安殿・忠魂碑は全国各地にあった。


<記者の目>建造物の威圧感 破滅への道示す 宮城隆尋(中部支社報道部)

宮城隆尋(中部支社報道部)

 強い日差しの中、欠けた菊花紋は鈍い光を放ち、異様な存在感があった。当時は木造家屋がほとんどだが奉安殿は鉄筋コンクリートで造られた。忠魂碑も大きな砲弾の形をしており、見上げる高さにある。

 あがめる人々はもういないが、建造物だけでも威圧感が伝わってきた。終戦まで続いた数十年間の皇民化教育を象徴している。

 戦争は突然起こるわけではない。破滅への道のりを示す遺物として、現在の世相を重ねて見ずにはおれなかった。

(2004年入社、39歳)