浦添市の前田高地 険しい崖をめぐって戦闘 半数超える地域住民が犠牲に<記者が歩く戦場の爪痕>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
日米両軍の激戦が続き、米軍から「ハクソー・リッジ」と名付けられた前田高地について説明する古波蔵豊さん=18日、浦添市前田(新里圭蔵撮影)

 浦添の街が一望できる浦添城址がある前田高地。1945年4月25日から5月6日まで、日本軍と米軍の激しい戦闘が繰り広げられた。2016年公開の米映画「ハクソー・リッジ」はその戦闘を描いている。うらおそい歴史ガイド友の会の古波蔵豊さん(71)の案内で同地を訪れた。

 映画では米兵が縄ばしごを掛け、よじ登ってきた崖を見下ろす。緑が生い茂り、分かりづらいがほとんど垂直のように見える。映画はオーストラリアで撮影したそうだが、実際の風景によく似ており、リアルに作られていると感じた。日本軍はここで待ち構え、登ってきた米兵と戦闘を繰り返したという。

 「米の資料によると、日本軍は推定3千人が戦死したそうです。米兵も800人のうち324人しか生き残らなかった」と古波蔵さん。目を閉じ、当時の様子を想像してみた。75年前、ここで血みどろの死闘が繰り広げられていた。敵も味方もない地獄。胸が締め付けられた。

現在の前田小学校付近。激戦地となった前田高地を奪取し、首里へ前進する米兵=1945年(沖縄県公文書館提供)

 一方、映画に住民の姿は描かれていない。前田高地の周囲には住民が避難した壕が点在している。南側にある「クチグヮーガマ」を訪ねた。

 17年8月16日付の本紙には家族や親類とガマに避難した、沖縄戦当時13歳の女性の証言が掲載されている。〈「ドーン」という爆音とともに地響きがした。爆風がガマの中まで吹き込み、見上げると、壕の天井に人間の肉片がこびりついていた。「近くにいた日本兵のものなのか、住民のものか分からないが『地獄とはこんなものなのか』と思った」〉

 落盤の危険があり中に入れない。入り口から中をのぞいたが暗くて見えない。爆音が響く暗闇の中、身を寄せ合う家族に思いをはせた。記事の中で、女性は映画について「見る気はしない。思い出したくない」と話している。70年以上たってもぬぐい去れない恐怖。沖縄戦の傷は今も暗い影を落としている。

 浦添市史によると、沖縄戦で前田は住民934人中549人、仲間は503人中278人、安波茶は209人中134人が亡くなった。浦添城跡南側には日本軍の陣地壕があった。「日本軍が守ってくれる、と信じて逃げ遅れた人がたくさんいたのでは」。古波蔵さんはそう推測する。

 日本軍は前田高地から撤退後、通称シュガーローフと呼ばれた那覇市おもろまち一帯などでも激戦を繰り広げ、首里城地下にあった第32軍司令部壕を5月下旬に放棄。南部に撤退し軍民混在の泥沼の戦いとなった。

 前田高地の戦闘に参加した、沖縄学の第一人者だった外間守善氏(1924~2012年)は「嘉数高地、前田高地、せめて首里高地で軍司令部が玉砕か降伏していればあれほど多くの非戦闘員である沖縄県民を巻き添えにせずにすんだのだ」(「私の沖縄戦記 前田高地・六十年目の証言」)と振り返る。

 沖縄戦は無人の荒野で行われたわけではなく、その周囲で暮らすたくさんの人たちがいて、その人たちから全てを奪った。そのことを忘れてはいけない。そんな当たり前のことを痛感させられた。


<メモ>

 前田高地 現在の浦添城跡を含む、前田集落の北側に広がる標高約120メートルの高地。沖縄戦で、首里に置かれた第32軍司令部を守るため日本軍が防衛線を張り、西海岸から上陸し進攻してきた米軍と激戦となった。米軍はのこぎりで切ったような崖とし「ハクソー・リッジ」と呼んだ。
 


<記者の目>映画になかった住民犠牲気付く 荒井良平(南部報道部)

荒井良平(南部報道部)

 今回、映画「ハクソー・リッジ」を見直してから現地へ行った。映画は圧倒的な映像と音響で壮絶な戦場をリアルに描いているように感じた。そのせいか、現地でも75年前の戦闘を現実感を持って感じることができた。

 ただ現場で話を聞くと、映画では描かれなかった住民の犠牲に気付かされた。証言者が減る中、映像やVR(仮想現実)を用いて追体験する手法は増えていくだろう。しかし現実に目の前にある戦争の悲惨さを語る戦跡の強みは、それらをはるかに上回ると感じた。

 (2004年入社、38歳)