撃たれた父、畑に埋めた「沖縄戦10月も終わらず」 オリオンビール会長・嘉手苅義男さん語る


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マラリアの治療で腕に負った傷痕を示す嘉手苅義男会長=9日、浦添市のオリオン会館

 オリオンビール会長の嘉手苅義男さん(81)は沖縄戦で父・松吉さん=当時37歳=を失った。1945年10月、嘉津宇岳で米兵に撃たれた松吉さんの遺体が見つかり、まだ7歳だった義男さんは自らの手で父親を一家の畑に埋めた。やんばるの山中には沖縄の女性を襲う米兵や日本軍の敗残兵がいて、地上戦を生き延びた住民が犠牲になった。嘉手苅さんは「6月23日、8月15日で終戦と言うけれど、それは間違い。沖縄の山の中は10月まで戦争だった」と語った。

 慰霊の日を前に、本紙の松元剛編集局長が話を聞いた。嘉手苅さんは自身の戦争体験について初めて取材に語った。

 嘉手苅さんは屋部村(現名護市)旭川の出身。嘉津宇岳の山裾に家があった。嘉津宇岳と並ぶ八重岳には日本軍第32軍の国頭支隊(宇土部隊)が陣地を築き、家族の生活にも戦争が影を落とした。軍から食料や鍋、農具などの供出が命じられ、松吉さんは防衛隊員として伊江島に駆り出された。

 45年3月下旬に名護への空襲が始まり、名護湾に集まった米艦船が本部半島に艦砲射撃を繰り返した。

 嘉手苅家も空爆の直撃弾に遭い、旭川に避難しに来ていた、いとこたち5人が犠牲になった。空襲を免れた嘉手苅さんは母・芳子さんと4人の姉妹とともに山中のガマ(自然壕)に身を潜めた。激しい艦砲射撃で、山に逃れた多くの住民が犠牲になった。

 本部半島を制圧した米軍は4月16日に松吉さんのいる伊江島に上陸する。伊江島は「沖縄戦の縮図」と言われるほど激しい地上戦となった。だが、松吉さんは仲間と舟を作り夜中に島を脱出し、家族と合流した。羽地村に設けられた米軍の収容所に家族でたどり着いた。

 戦後の生活が始まるはずだったが、10月、松吉さんは地元の友人の妹を米兵から守るために、収容地区を抜けて嘉津宇岳の集落を目指して山に入っていった。松吉さんは戻らず、嘉手苅さんは叔父たちに連れられて父を探しに出た。

 山中で銃に撃たれた松吉さんの遺体が見つかった。自宅の畑まで遺体を運び、穴を掘って埋葬した。嘉手苅さんは「せっかく伊江島から生きて帰ってきたのに。あんなに悲しい思いはその後の人生でもない」と唇をかんだ。

 大黒柱を奪った戦争は一家の境遇を一変させた。芳子さんは戦後、女手一つで5人の子を育てるため那覇に出て、平和通りかいわいの市場で商売を始めた。嘉手苅さんは学校に通いながら働き、母親を支えた。

 「おやじを土に埋めた話なんて、今までなかなか身内にもしなかった。やはり戦争はあってはならない。私は一番の戦争反対者だ」
(経済部長・与那嶺松一郎)

特集・沖縄戦75年