オリオン会長・嘉手苅義男さん「家に米軍爆弾、いとこ犠牲」「日本兵に嫌な思い出しかない」 インタビュー詳報


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 沖縄戦75年の節目に、オリオンビール会長の嘉手苅義男さん(81)が自身の戦争体験についてメディアに語った。戦争当時は7歳。大黒柱の父を亡くし、戦後の生活は困窮した。嘉手苅さんは「戦争は絶対にあってはならない」と力を込めた。インタビューの概要は次の通り。

孫たちを連れて名護市旭川の生家を目指す嘉手苅義男さん=2月、名護市

―少年期に沖縄戦を迎えている。

 「私の家は旧屋部村の旭川、あそーという集落にあった。嘉津宇岳を登っていく。今で言う『ポツンと一軒家』だ。小学校に入ったが、すぐ(1944年)5月で授業がなくなった。10月の最初の空襲の時は、庭に大きなガジュマルがあって、そこから名護湾で船がやられるのが見えた。その後、家にも米軍の爆弾が落ちた。自分や母は外にいて無事だったが、うちに避難しに来ていた、いとこたちが5人ほど死んだ。それから山の中で防空壕生活が続いた」

―父親はどうしていたのか。

 「父は伊江島に召集されていた。伊江島は沖縄戦の中でも壮絶な『玉砕の島』だ。でも、おやじは大工ができたので、ウミンチュの仲間と3人で夜中にサバニを作って本部町まで生きて帰ってきて、家族で羽地の収容所に収容された。そうして父は収容所にいたが、友人の妹を米兵から守るために、友人のおじさんも一緒に3人で嘉津宇岳の家に戻って行った。その山の中で友人のおじさんが銃撃され、逃げた父も撃たれた。父の友人1人だけが生きて山を下りてきた」

―組織的な戦争が終わっても、山中にはまだ日本軍の敗残兵もいた。父親を撃ったのは日本兵か米兵か。

 「撃ったのは白人だという。米兵がやぶの中で女性を探して歩いていると言われていた。自分のおじさんたちと一緒におやじを探しに行った。長男だったのと、子どもを連れていれば殺されないという考えがあったのだろう。そこでおやじが死んでいた。何人かで担いで家の畑まで運んだ。穴を掘ってビロウの葉っぱを敷き、その上に乗せて、またビロウをかぶせて埋めた。父の死に接したのは家族では僕だけ。撃ち抜いた弾が父の眉間に大きな穴を開けていた」

―7歳で自身の父親を埋葬する体験をした。どのような思いだったか。

 「何と言えばいいのか、もうすぐ82歳になるが今になってもこんなに悲しい経験はしたことはない。父は6月に死んだことになっているが、実際は10月だった。皆さんは8月15日で終戦だと言う。しかし、沖縄の山の中は10月まで戦争だ。5人の子どもを抱えて残された母の苦労は計り知れない。戦後の生活はとにかく貧乏だった。母を助けることだけに一生懸命だった。戦争は絶対にあってはならない。基地反対、戦争反対いろいろあるけれど、私は一番の反対者だ」

―艦砲射撃を受けた本部半島には八重岳に日本軍の部隊がいた。軍隊と住民が一緒にいた所では住民に大きな犠牲が出た。

 「だから本島南部はあれだけの犠牲者が出た。やんばるは兵隊は少ないが、私たちの集落は八重岳に兵隊がいたから爆弾を落とされた。今だって自衛隊がいなければ誰も爆弾を落とさないだろう。基地がなければ誰も爆弾を落とさない」

 「日本兵には嫌な思い出しかない。今でも思うんだけど悪魔だよ。国民のためと言うけど全く違う。われわれは(農耕に使っていた)馬も取られるし、鉄でできた鍋や道具も全部取られた。強盗団のように、みんな持っていった。自分の家の前を、白い着物姿のお姉さんたちが一緒に歩いて行く光景が記憶に残っている。母が『あれは、ちょーせなー(朝鮮人)』と言っていた。子どもだったから分からないが、想像すると慰安婦の人だったと思う」

―戦争が終わった後の生活も苦しかったか。

 「マラリア、赤痢、疫痢、髄膜炎全てかかった。マラリアにかかったのは8歳のころで、注射を打ったら腕が腫れてしまい、上腕部を切って膿(うみ)を出した。今も腕に残っているかんぱち(傷痕)は、マラリアにかかった証拠だ。命(ぬち)どぅ宝というけど、それを実際に経験している」

―戦争を語り継いでいくことをどのように考えているか。

 「子どもたちに私が生まれた場所や戦争の話はするけれど、おやじを土に埋めた話なんかは今までなかなか身内にするものではなかった。悲しいし寂しいから、語り継ぐというよりは記録を残すしかないかと思う」

 「今年2月に息子や孫たちと一緒に屋部小学校の方から嘉津宇岳に登った。途中までしか行けなかったけど、孫たちは喜んで歩いていた。ルーツはここだということを子々孫々につないだ方がいい。今年で最後だと思って行ったわけだが、来年また別の道から挑戦しようと思う」

 (聞き手・松元剛編集局長 まとめ、構成・与那嶺松一郎経済部長)

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 かでかる・よしお 1938年生まれ。戸籍は39年8月10日生まれとなっているが、戦後に小学1年をやり直したため、戸籍整備の際に1年下の年齢で申告したという。那覇商業高卒業後、第一相互銀行(現沖縄海邦銀行)を経て、63年にオリオンビール販売(後に本社に吸収合併)入社。働きながら沖縄大学を卒業。2009~17年にオリオンビール社長を務めた。現会長。


不戦願う壮絶な証言 聞き手 編集局長・松元剛

編集局長・松元剛

 「慰霊の日」を前に、嘉手苅さんは壮絶な戦争体験を語ってくれた。沖縄戦から75年の節目を迎え、その歳月の重みがその背中を押したように思えた。

 7歳の子が、米兵に眉間を銃撃されて息絶えた最愛の父を見つけた時、一家の生計を支えた畑に亡きがらを葬った時に何を思ったかを聞いた際、嘉手苅さんの目は一瞬宙を舞い、話し出すまで間合いを置いた。筆舌に尽くせない衝撃と悲しみを懸命に表現し、「私は(戦争の)一番の反対者だ」ときっぱり言い切る言葉に強さが宿った。

 地場の製造業を代表するオリオンビールを率いてきた沖縄経済界の重鎮が意を決し紡いだ貴重な証言は、日米の組織的戦闘が終わった後も罪のない住民の犠牲が続いた沖縄戦の実相を照らし出す。不戦を乞い願う重みにあふれた嘉手苅さんの証言に接し、沖縄戦を継承する県紙の使命を改めてかみしめている。