与那城監視哨跡(うるま市)10代の監視員、24時間体制 10・10空襲の弾痕残る<記者が歩く戦場の爪痕>


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米軍機からの攻撃で壁面にできた弾痕を、指し示す森根昇さん=17日、うるま市与那城屋慶名(新里圭蔵撮影)

 うるま市屋慶名の与那城郵便局から小道に入ると、うっそうと生い茂った丘が見えてくる。地元では通称「イシマシムイの丘」と呼ばれている。入り口に掲げられる「与那城監視哨跡(しょうあと)」の看板。「到着まで80メートル」の文字。舗装されていない急な上り坂を先へ進み、目的地に向かう。

 丘を登り切った所に、古びた正八角形のコンクリート製の建造物が現れた。丘の上からは平安座島や海中道路が見え、その先には太平洋が広がっている。辺り一帯を監視するには絶好の場所だったに違いない。

 与那城監視哨跡は、入り口以外の七つの壁にそれぞれ大きな窓枠があり、四方が見渡せる構造となっている。屋慶名在住で、沖縄市平和ガイドネットワークの森根昇さん(79)は八角形の形状について「八紘一宇(戦時中のスローガン)の思想に基づいているのではないか」と推測するが、本当の理由は分かっていない。

 うるま市教育委員会の案内板によると、与那城監視哨は戦時中、戦闘機を早期に見つけ、敵か味方かを判断し防空機関に知らせる施設として使用されたという。1938年ごろ建てられたが、コンクリート製になったのは43年。太平洋戦争が激しさを増す中、徐々に忍び寄る戦争に備え県内でも防衛体制を強化したことがうかがえる。

14~18歳の監視員ら。うち1人は10・10空襲時、太平洋から襲来する米軍機に気付き、一報を入れたとされる(1944年ごろ撮影。森根昇さん提供)

 森根さんは「14~18歳の若者が24時間体制で監視員として任務に当たった。6人一組となり、監視役、電話係に2人ずつ配置され、残り2人は休憩を取った」と話す。

 44年10月10日、那覇を中心に沖縄各地が空襲に遭った10・10空襲の時、米軍機襲来の情報を最初にキャッチし、日本軍に知らせたのが与那城監視哨だった。しかし日本軍は真面目に取り合わず、結果的に沖縄は甚大な被害を受けることになった。

 監視哨には10・10空襲の際の弾痕が計27カ所、壁面のあちらこちらに残っている。中には、側壁を貫通している弾痕もある。幸いにも死傷者は出なかった。建物が半地下構造になっているため、うまく身を隠し難を逃れられたのかもしれない。

 米軍が本島上陸する直前の45年3月下旬、与那城監視哨は閉鎖された。終戦後は地域の子どもの遊び場になっていたそうだが、今では立ち寄る人はほとんどいない。忘れ去られたように、丘の上でただ、たたずんでいる。しかし決して消えることのない弾痕が、戦争の風化にあらがっているように見える。

 

 取材終了間際、米軍機の飛行音が聞こえてきた。当時の監視員らも米軍機の音を聞いたのだろう。あの時と似た光景が今も続いていることに改めて気付き、はっとした。10・10空襲時、圧倒的な戦力で空を覆った無数の戦闘機。弾痕と飛行音。地上戦が起きる前にすでに、現在に至る米軍の支配構造が暗示されていたように思えてならない。

 


〈メモ〉  与那城監視哨跡

 戦時中、戦闘機を早期に見つけ、敵か味方かを判断し防空機関に知らせる施設として使用された。哨内には当時、電話機や双眼鏡、方位板などが置かれていた。24時間3交代制で、約20人が監視に当たっていた。

 

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<記者の目>人知れず残る 存在伝えたい/砂川博範(中部支社報道部)

砂川博範(中部支社報道部)

 取材前、与那城監視哨跡について本紙で過去に掲載された記事を探してみたが、どれだけさかのぼっても1件しか出てこなかった。地元の人以外にはあまり知られていないに違いない。人知れず残された戦跡の存在を伝えたかった。

 10・10空襲時のエピソードが興味深い。あの時、日本軍が与那城監視哨から届いた情報を真面目に取り合っていたら、歴史は変わっていたのかもしれない。

 太平洋から押し寄せてくる米軍機を見て、若い監視員らは何を思っただろう。76年後に生きる私は、同じ空を今も飛び交う米軍機を見て、日常と化したこの光景がいつまで続くのか考えずにはいられなかった。
  (2018年入社、33歳)