家族10人失った8歳に日本兵が銃を…「神様、助けて」 一人で生きた沖縄戦体験を初証言 金城節子さん(83)


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
沖縄戦体験を初めて公に証言した金城節子さん=20日、糸満市

 1945年6月中旬、本島南部の旧摩文仁村伊原。米軍が空からの爆撃と艦砲射撃で日本軍陣地に徹底的な攻撃を加える中、当時8歳だった糸満市糸満の金城節子さん(83)は、ひとりぼっちで戦場を逃げ惑っていた。「パーパー(おばあ)よ」。はぐれた祖母を探し、泣き叫ぶ少女に日本兵は「撃つぞ」と銃を向けた。その時、「ヒンギレー(逃げろ)」。近くから声が聞こえた。一目散に必死で逃げた。「神様、神様、助けて、助けて」。心の中で叫び続けた。

 沖縄戦から75年。戦争で家族10人を失った金城さんは、自らの体験を初めて語った。

 米軍が迫っていた45年6月。金城さんは母の富さんと弟の正一ちゃん、正康ちゃん、祖父の勝二さんと祖母のトクさん、親戚の美代子さん、父方の祖父の次良さんなど計11人で糸満の集落を転々と逃げ続ける中、次々に家族を失った。同じころ、日本軍は与座岳から国吉―真栄里―米須を最後の防衛戦として部隊を再配備し、徹底抗戦していた。米軍は空と海、陸から猛攻撃を加え、西側から摩文仁へ迫った。一家が逃げ惑った時期と経路は、まさに最後の激戦の渦中だった。

 実家のある糸満を出て国吉から真栄里に向かう途中、ちぎれた日本兵の足を踏んで驚いて歩けなくなってしまった金城さん。おぶってくれたのは祖父の次良さんだった。しかし次良さんは歩けなくなり、真栄里の手前で別れた。「お母さんたちに付いて行きなさい」。それが最後の言葉だった。

 真っ赤に防風林が燃える真栄里を通過し、伊敷にたどり着いた。金城さんと母の富さん、弟2人は屋敷内の石垣のそばに隠れ、他の家族は馬小屋に身を潜めた。金城さんは「パーパー(おばあ)のそばがいい」と美代子さんと場所を代わってもらった。

 「バーン」。10分もしないうちに、近くに落ちた爆弾が美代子さんを吹き飛ばした。即死だった。そばにいた母の頭上には、空から機銃掃射が降り注いだ。母がおぶっていた、末弟の正康ちゃんの頭を弾が貫通した。2人の遺体を道端の畑に埋め、先を急ぐしかなかった。

 けがをした母と、母を担いでいた叔父らが遅れ、伊原にたどり着いた時には、祖母と弟の正一ちゃんの3人となっていた。ガジュマルのそばに座った。そこに日本兵が来た途端、爆弾が落ちた。破片が日本兵の鉄かぶとに当たって跳ね返り、正一ちゃんの頭を直撃した。祖母は幼い孫の亡きがらを畑に埋め「後で迎えに来るから」とつぶやいた。

 祖母と2人だけとなり、逃げる金城さんの頭上には艦砲弾が「ヒューヒュー」と飛び交った。爆弾が近くに落ち、ついに祖母ともはぐれた。戻って祖母を探すが見つからない。たくさんの死体に紛れて米軍をやり過ごし、伊原の近くで米兵に背後から捕らえられた。

 戦後、金城さんは稼業を優先し、自身の戦争体験を公に語らなかった。日本兵に銃を突き付けられた恐怖や戦場での心細さは胸の奥深くにとどめたが、記憶は消えることはなかった。「ずっと苦しかった。この年になったら体験したことを伝えたい、という気持ちを我慢する必要はないと思った。本当に戦争は生やさしいものではない」 

沖縄戦体験を初めて公に証言した金城節子さん(左)と聞き取りをまとめるまたいとこの新垣康博さん(右)=20日、糸満市

体験 次代へ継ぐ 今語らなければ 「戦争は人の心を鬼に」

 金城節子さん(83)=糸満市糸満=は戦後、自身の戦争体験を公の場で語ってこなかった。県遺族連合会と日本遺族会が主催する「平和祈願慰霊大行進」には毎年、参加した。しかし昨年、途中で体調を崩して歩くのを中断するなど自身の体力の衰えを感じた。「今語らなければ、もう残せないかもしれない」。切実な思いがあり、自らの体験を語る決意をした。

 沖縄戦で親戚や弟2人の死を目の当たりにし、はぐれた母や祖母を探し、戦場を一人でさまよった。逃げる途中、至る所に散らばる遺体を目にした。「シュー」。気付かず、膨れあがった遺体を踏むと音がした。内蔵がえぐれた日本兵の遺体が転がり、死んだ母親に寄り添って泣く子どもを目にしても、何も感じなかった。金城さんは「戦争は人の心を鬼にする」と振り返る。

 戦後は慰霊大行進を歩き、亡くなった家族を弔った。行進コースには金城さんが戦争中、家族と一緒に避難した行路が含まれる。当時は遺体であふれていた道は、今はきれいに整備された。家族が亡くなった場所の近くを通るたび「今年も会いに来たよ」と心の中で語り掛けた。

 自らの戦争体験を残したいと願う金城さんの気持ちを受け止めてくれたのは、またいとこの新垣康博さん(69)で、昨年11月から聞き取りを始めた。金城さんは「自分が死んだら終わりで、もう残せないと思っていた」と感謝する。

 体験を残したいと考えるのはもうひとつ理由がある。金城さんは沖縄戦の直後、旧具志川村前原の収容所に移され、孤児扱いとなったが、母方の祖母の姉・カメさんが収容所に迎えに来てくれた。カメさんの一家に引き取られ、カメさんの娘の玉子さんにも、よくしてもらったという。自らの体験を残し、感謝の気持ちを表したいと考える。

 沖縄戦から75年が経過した。戦後生まれの世代は、戦争の恐ろしさを真に受けていないのではないかと感じる。「戦争の苦しみは体験した人じゃないと分からない。戦争の教訓は平和だ。誰がなんといっても平和が大事なんです」。金城さんは力強く語った。(中村万里子)