性暴力という「戦争」終わらず 根底に軍隊の構造的問題 沖縄戦75年


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 沖縄戦で日本軍の組織的な戦闘が終結してから23日で75年となった。だが、県内の女性たちにとって「戦争」は本当に終わったのだろうか。「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」共同代表の高里鈴代さんは本紙取材に「戦争は終わっても、女性たちにとっては新たな性暴力の戦争が始まった」と語る。戦中は日本本土防衛の防波堤として日本軍が駐留し、戦後は米軍に占領され、米軍専用施設の70.33%が集中する沖縄でいまも起き続ける軍隊による女性への性暴力について、75年の節目に振り返る。 (問山栄恵)

 ◆各配備地に慰安所

 太平洋戦争時下の性暴力として挙げられるのが、「従軍慰安婦」問題。沖縄戦でも沖縄、朝鮮半島、少数だが台湾や本土出身の「慰安婦」が存在した。1944年3月に第32軍を組織した日本軍は、制空権を奪い返すために沖縄各地で飛行場を建設。同年夏以降は日本軍の部隊が次々と沖縄入りした。部隊の駐留とともに、慰安所も相次いで設置され、軍監視下に置かれた。その数は県史によると、延べ143カ所に上る。

 慰安所は沖縄本島に限らず離島にも設置された。44年11月の「大東島支隊第四中隊陣中日誌」には、沖大東島(ラサ島)に同月23日、日本人業者に連れられた慰安婦7人が上陸したことが記されている。日誌には、業者の名前と福岡県の住所、慰安婦7人の朝鮮の本籍、氏名、芸名(日本名)、年齢などが記されている。そこには19歳が2人、21歳が3人、25歳が2人いたことが分かる。

 日本軍は、慰安所の設置理由を第一に一般女性への乱暴予防としていたが、ラサ島では住民が全員引き上げた後も慰安所が部隊とともに島に残された。さらに、県史によると県内各地での慰安所設置後も実際は沖縄女性への性的暴行や犯罪は頻繁に起こっていた。

 ◆“新たな戦争”

 45年6月、沖縄では日本軍による組織的な戦闘が終わったが、上陸直後からの米軍兵士による性的な暴力が女性たちにより一層向かっていった。「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」が、新聞、市町村史、書籍、証言などを基に作成した「沖縄・米兵による女性への性犯罪(1945年4月~2016年5月)」は、多くの事例で埋め尽くされている。同会の調査によると、主に女性に関連した女性暴行や殺人、放火などの犯罪は46年だけで439件、47年で242件に上る。連日のように女性たちが狙われ、時には命を落とし、自ら命を絶った者もいた。

 「入院していた少女が父親の前で米兵に乱暴される」「帰宅途中の20歳女性が拉致され、兵士8人くらいに乱暴される」「赤ちゃんをおぶった女性が乱暴され、殺される」。その内容はすさまじく、心が痛む。

 特にベトナム戦争時は、ホステスを乱暴し殺害する凄惨(せいさん)な事件が頻発した。高里さんは「1年間で4人が絞殺された年がある。その背後には、無数の性暴行と、絞め殺されそうになった声が上げられない女性たちがいる」と語る。

 ◆氷山の一角

 軍隊による性暴力は1972年の日本復帰後も続く。県警の統計によると、摘発した米軍構成員による犯罪は72~2018年末までに5998件に上り、うち580件が殺人や強姦などの「凶悪犯」にあたる。その中には、1995年の米兵による少女乱暴事件、2016年に元海兵隊員で米軍属の男が女性を殺害した事件も含まれる。だが、高里さんは表に出ている統計上の数字は「氷山の一角だ」と指摘する。さらに性暴力の根底には性差別があり、人を殺せるようになるために軍隊では兵士が内なる女性性を敵視する訓練が行われるとし、女性への性暴力はたまたま起こるものではなく軍隊が持つ構造的暴力だと強調する。

 性暴力の被害者がまだまだ声が挙げにくい一方で、近年は性被害を告発する「#MeToo」運動や、性暴力に反対する「フラワーデモ」が全国に広がるなど世の中が変わる兆しもある。「性暴力の被害者は、事件が起こる度に自分の身に起きたことと重ね、社会がどう対応するのか見ている」と高里さん。性暴力への対応を私たちの社会は問われている。

沖大東島(ラサ島)に設置された慰安所について記述されている「大東島支隊第四中隊陣中日誌」。日誌には慰安婦7人の朝鮮の本籍、氏名、芸名(日本名)、年齢などが記されている