伊江村民収容地跡(名護市)戦後続いた飢えとの闘い 村民4200人が帰郷待つ<記者が歩く戦場の爪痕>


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かやぶき長屋が建ち並んでいたという収容地跡で当時の様子を語る山城利正さん=12日、名護市久志

 伊江村民収容地跡記念碑は、名護市久志の久志浄水場の北側に建っている。一帯は1945年9月から47年3月にかけて、米軍が指定した伊江村民向けの収容地だった。5歳で収容地暮らしを経験した山城利正さん(80)=名護市宮里=の案内で跡地を歩いた。

 45年4月16日、米軍は伊江島に上陸し、5日後の21日には伊江島を占領した。日本軍は女性を含む住民も戦闘に動員、島の避難壕のガマでは「集団自決」(強制集団死)が起こった。「伊江村史」によると、日本軍の死者は約2千人、住民は約1500人と推定される。戦闘が終わっても伊江村民の受難は続いた。

 「証言・資料集成 伊江島の戦中・戦後体験記録」(伊江村教育委員会)によると、米軍は渡嘉敷島と慶留間島に約2100人の伊江村民を強制移動し、大浦崎収容地区には3200人を送った。帰島許可が下りる47年3月までそれぞれ島外での暮らしを余儀なくされた。

大浦崎収容地区(名護市辺野古の現・米軍キャンプ・シユワブ)とみられる場所で生活する住民ら=1945年7月8日(県公文書館所蔵)

 収容地にいた本部町、今帰仁村の住民は帰郷する中、45年9月、伊江村民は大浦崎から久志集落の杣山(そまやま)(集落民が生活用の資材を調達する山)一帯へ移動させられた。46年に伊江村出身の本土からの引き揚げ者ら約千人が合流し4200人の大所帯となった。

 収容地跡には現在、木が生い茂っている。碑から北東に歩くと少し開けた原っぱに出た。建物は既に無く、かろうじて残る未舗装の道路が当時の様子をわずかに忍ばせる。「かや葺(ぶ)きの長屋が並んでいた」と山城さん。伊江村史によると伊江島の人たちで造った長屋1棟に6~8家族、20~30人が暮らした。山城さんは「戦争で精神に異常を来し大声で叫ぶ人がいたり、マラリアで亡くなったりする人も多かった」と証言する。

碑は1997年、収容地の東にあった学校入り口跡に建立されたが、戦後70年を経て2017年、生活跡地に移された=12日、名護市久志

 ノミやシラミに悩まされ、食糧も乏しく、集落の畑からイモを盗んだり、遠く羽地まで食糧調達に行ったりする人もいた。機械用の重油で天ぷらを揚げ嘔吐(おうと)しつつ食べたこともあったという。

 山城さんの長兄・正四さん(当時20歳か21歳)は戦艦大和の護衛艦に乗船し撃沈された。遺骨らしきものを友人が届けてくれたが、収容地内で発生した大火で燃えてしまった。母は「正四は二度焼き殺された」と号泣したという。高齢の祖母の面倒を見るため島に残った長姉の正子さん(当時22歳)は伊江島のサンザタ壕で「集団自決」(強制集団死)に追い込まれ、祖母も爆弾で命を落とした。

 家族3人を失った山城さん。「母の嘆きは今も耳から離れない。優しかった姉の最期も真実が分からない」と言葉を途切らせた。一方で「(収容地暮らしを)不幸とは感じなかった。子ども同士、川でエビを取ったり楽しく遊んだものだよ」と笑った。

 セミの声が周囲を包む。ここで人々は家族を思い、飢えと闘いながら帰郷の日を待った。生きるため、子を養うため必死だっただろう。戦争の残酷さと裏腹に生き抜く人間の強さを感じた。

<メモ>伊江村民の離散

 伊江村民約6800人のうち、4千人近くは疎開できないまま1945年4月16日の米軍上陸を迎えた。伊江島で生き延びた村民約2100人を同年5月、米軍は渡嘉敷島と慶留間島に強制的に移送。疎開などで島外にいた村民は大浦崎収容地区を経て久志に収容された。

 

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<記者の目>基地問題の原点 沖縄戦だと実感/岩切美穂(北部支社報道部)

岩切美穂(北部支社報道部)

 長男を失った山城さんの母の嘆き、姉の「集団自決」(強制集団死)を山城さんが大学生になって初めて知らされたことなどを聞き、受け入れ難い現実の中で生きるしかなかった人の心はどんなものだったろうと考えさせられた。と同時に元気な子どもの姿が、大人たちに生きる力を与えただろうと想像した。

 伊江島は戦後もLCT爆発事故、土地接収、そして土地闘争と米軍に翻弄(ほんろう)されてきた。今も島民は訓練による騒音や落下物に我慢を強いられている。沖縄の基地問題の原点に沖縄戦があることを実感した。 (2019年入社、42歳)