沖縄「平和のドア」求めた75年 慰霊から発信「戦争死」と向き合い 


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静かな朝を迎える平和の礎=2020年6月18日、糸満市摩文仁

 沖縄戦から75年。新型コロナウイルスの感染防止のため、沖縄県は今年の沖縄全戦没者追悼式の会場を国立沖縄戦没者墓苑に変更する方針を当初示し、のちに従来の平和祈念公園の式典広場に戻した。沖縄全戦没者追悼式は1952年8月19日に1回目が執り行われ、その目的は慰霊から平和発信へと広がっていった。戦後、人々は沖縄戦をどう認識し、「戦争死」と向き合ってきたのか。追悼と平和行政の歩みを振り返る。

 

<遺骨収集から国立墓苑まで>納骨所統合「転骨」拒否も

 

那覇日本政府南方連絡事務所、琉球政府社会局が実施した収骨作業=1961年3月4日、運玉森など

 沖縄戦では日本側だけで18万8千人余が亡くなったが、戦後半年から1年間、遺体は放置されていた。米軍の民間人収容所から故郷に戻った人たちは、沖縄本島南部を中心に遺骨を拾い集め、集落の近くに納骨所や慰霊塔をつくった。

 1956年、日本政府は沖縄を統治していた米国と交渉し、費用を出して大規模な遺骨収集と「総合納骨堂」建設を琉球政府に委託した。57年には那覇市識名に戦没者中央納骨所が完成した。日本政府、琉球政府、沖縄遺族連合会が中心となり遺骨収集を進めた。

 一方、本土の遺族会から「納骨所が粗末だ」などの批判を受け、各集落の納骨所の整理統合を決めた。琉球政府が中央納骨所へ遺骨を移す「転骨」作業に当たった。糸満市米須にある約3万5千体分の遺骨を納めた「魂魄の塔」などから転骨した。

 ただ、糸満市真栄平など地域の納骨所に集落出身者の遺骨が収められていたり、日本軍による住民虐殺や食糧強奪を及んだりしたことを理由に、国の中央納骨所への転骨を拒んだ集落もあった。79年には中央納骨所が狭くなったことから、市摩文仁に国立沖縄戦没者墓苑が完成した。

糸満市摩文仁の国立沖縄戦没者墓苑=2020年5月26日

 

<摩文仁の丘 各県慰霊塔>60年代 整備増 目立つ英霊視

 

 沖縄戦最後の激戦地となった糸満市摩文仁の丘には1960年代から各府県慰霊塔の設置が相次ぎ、現在は32府県の慰霊塔がある。62年11月に開かれた沖縄戦終結17周年戦没者慰霊祭に向けて、日本政府の資金援助の下、摩文仁の丘の参道が整備され、日本軍関係者を顕彰する「黎明の塔」や「山雨の塔」などが建設された。これと歩調を合わせて県外府県の沖縄戦戦死者を弔う慰霊塔も建設が次々と進んだ。

 慰霊塔の建立は日本政府の資金で進められた「霊域整備事業」の一環。60年代に入ると、県外からの南部戦跡巡拝団などが増えた。そのためこうした人を迎える「霊域」の整備が進められ、「慰霊塔建設ラッシュ」とも言われた。

 一方、多くの慰霊碑の碑文には「殉国者」や「愛国者」として賛美する文言が目立った。沖縄戦で戦死した日本兵がいかに勇敢に戦ったかを強調する内容もあり、70年代に入ると慰霊塔が整備された一帯が「靖国通り」と呼ばれたり、摩文仁の丘の「靖国化」だと指摘されたりもした。

 これら県外府県の慰霊塔が立ち並ぶ区域の中に国立戦没者墓苑がある。

黎明の塔慰霊祭=1971年2月11日
島田叡知事や県庁職員らを弔う島守の塔(撮影年月日不明)

<平和の礎>区別なく刻銘24万余

 

沖縄戦終結50周年慰霊祭と平和の礎除幕式=1995年6月23日、糸満市摩文仁の平和祈念公園

 沖縄県は1995年、平和の礎を糸満市摩文仁の平和祈念公園内に設置した。国籍や人種、敵味方、軍人・非軍人の区別なく沖縄戦で亡くなった全ての人の氏名を石板に刻銘した。沖縄出身者については、県遺族会の要望で1931年9月の満州事変以降の戦没者が刻銘された。沖縄出身者以外は戦死した日米英の兵士のほか、台湾、韓国、北朝鮮から連行され、氏名が判明した死没者も刻銘した。22日現在、24万1593人が刻銘されている。

 戦争で亡くなった県民の氏名を集めるため、県独自で全戸調査を行い、約5千人のボランティアが協力した。一家全滅などで氏名が分からない乳幼児も「○○の子」と刻んだ。

 平和の礎は、摩文仁一帯を「沖縄国際平和創造の杜」として世界平和の発信地にする構想の中に位置付けられていた。自国民の戦争死没者名を刻銘する碑は世界各地にあるが、かつての敵国兵士までも含む刻銘碑は唯一とみられる。当時、知事公室長として平和の礎設置の責任者の一人だった高山朝光さん(85)は「戦争を憎んで人は憎まない平和を愛する県民の心が宿っている」と説明した。平和の礎が世界に発信するメッセージといえる。

喪服から白のブラウスに/三十三回忌の追悼式 島袋愛子さん(元県援護課職員)

島袋愛子さん

 三十三回忌は喪が明けてお祝いをするという風習から、1977年の追悼式の前に上司から「白いブラウスと白い手袋を着けてきてください」と言われました。それ以前の式は黒の喪服で、会場にはお葬式のような白と黒の縦じまが描かれた鯨幕が使われていました。77年はそれを用いず、明るい雰囲気でした。

 当日はものすごい雨でした。献花をする人々に花を渡す係で、スカートの裾をしぼりながらの作業でした。平和メッセージの朗読をしたのは同僚の女性でした。同僚は緊張し、練習していました。当時は県庁の先輩職員の多くが沖縄戦体験者でしたが、その体験を語ることは少なかったです。

<平和記念資料館展示内容変更>「ガマの惨劇」残虐性薄める

 

1999年、リニューアルオープン前の県平和祈念資料館の展示で壕内部の模型案が改ざんされた。監修委員で了承した絵(左)では日本兵が銃を持っているが、県内部で無断変更した絵(右)では銃が取り除かれている
戦争当時のままに再現された日本軍の壕の中を真剣なまなざしで見る親子連れら=2004年6月24日、糸満市の県平和祈念資料館

 新しい沖縄県平和祈念資料館の開館を翌年に控えた1999年、沖縄戦の展示物を巡り「住民の視点」とかけ離れた案に変更され、大きな波紋を広げた。「ガマの惨劇」の模型展示案を巡り、県は展示内容を決める監修委員の承諾を得ぬまま、当初日本兵が住民に向けていた銃などを取り払った。「日本兵の残虐性が強調されすぎないように配慮する」という方針で、県幹部が指示した。県民からの批判が高まり、当時の稲嶺恵一県政を揺るがす事態となった。

 稲嶺知事が99年3月、県幹部に「反日的になってはいけない」と発言した後から始まった。変更内容は判明しただけでも18項目だった。当時の監修委員によると「専門家がいないと思いつかない項目もあった。大きな力への忖度(そんたく)を危惧せざるを得なかった」と振り返った。

 この年、八重山平和祈念館でも同じように展示内容の変更が明らかになった。

 2012年、県は第32軍司令部壕説明板の文言から慰安婦と日本軍による住民虐殺に関する記述を削除した。


<識者談話>石原昌家氏(沖国大名誉教授)「改ざん阻止へ監視継続を」

 

石原 昌家氏

 新たな沖縄県平和祈念資料館の開館(2000年4月)に当たって、私たち監修委員が最も議論を重ねたのは設立理念だった。旧資料館で「ある者は追いつめられて自ら命を断ち」とあった記述を、「自ら命を絶たされ」とした。集団死は自発的に行われたのではなく、日本軍による強制だったと言えるからだ。

 資料館には、日本軍による強制的な集団死を示す重要な資料が展示されている。44年11月18日に日本軍が出した「軍官民共生共死の一体化」という県民指導方針の資料もある。45年4月20日に陸軍大本営が発行した、国体護持のためには老幼婦女子の命を顧みないという「国土決戦教令」などもある。

 1999年、県は私たち監修委員の承諾を得ず、日本軍の残虐性を薄める形で資料館の展示内容を改ざんしようとした。のちに県民の批判を受けてほとんどが撤回された。しかし、沖縄戦の実相の改ざんは今も、これからも起こりうる。史実を県民が十分に理解して、常に監視しないといけない。