名蔵白水の戦争遺跡群(石垣市)軍命で強制避難 「寒い、寒い」マラリヤで859人死亡<記者が歩く戦場の爪痕>


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御真影が安置された白水の八重山支庁の壕跡を案内する松島昭司さん=20日、石垣市名蔵

 石垣島の中央部にそびえる県内最高峰・於茂登岳の西方に位置する白水(しらみず)は、太平洋戦争中、石垣町(当時)字登野城、大川住民の指定避難地とされた場所だ。森林がうっそうと広がり、川が流れるこの地では当時、マラリアがまん延し、日本軍の命令で避難させられた多くの住民の命を奪った。

 市から許可を取り、市文化財審議会委員で戦跡ガイドを務める松島昭司さん(70)と20日、白水に入った。舗装されていない小道を歩くと、両脇には植物が生い茂り、頭上に響く鳥のさえずりが自然の豊かさを感じさせる。道の途中に流れる浅い川を渡る時の水の冷たさが、6月の日差しには心地良い。

マラリアで寝込む人が多く出た白水の避難小屋の様子を描いた絵(作者の潮平正道さん提供)

 しばらく歩くと、道の右手に割れた古い食器が散乱していた。75年前に住民が使用したものだという。少し大きめの石を4、5個並べて作られた簡易なかまどの跡も残る。当時、白水には簡素な避難小屋が設置され、そこで住民は生活したという。松島さんの説明で避難小屋が建っていたと思われる場所に目をやると、シダに覆われていてその面影はない。

 1945年6月1日、石垣島に駐屯していた日本軍は米軍の上陸を想定し、各字住民に対して同10日までに山中の指定地に避難するよう命令を下した。10日付の「甲号戦備」(臨戦態勢)が解除される7月23日まで、命令は効力を発揮した。

 松島さんによると、軍命は日本軍の食糧不足解消や、米軍が上陸した場合の情報漏えい対策を図る目的だったとの説がある。

避難住民が使った食器類が散乱する白水のかまど跡を案内する松島昭司さん

 40日余りの生活の中で多くの住民が、蚊を媒介して感染するマラリアに罹患(りかん)。避難小屋では何枚毛布をかけても「寒い、寒い」との声が響いたという。いわゆる「戦争マラリア」によって、白水に避難した登野城、大川住民だけで859人が死亡した。石垣島全体では2496人、八重山全体では3647人がマラリアの犠牲となった。

 松島さんは「子どもたちも最初は水遊びを楽しんだかもしれないね」と、白水の避難地のすぐ近くを流れる名蔵川の支流・白水川を見詰めた。

 住民避難地から山に向けて上りの傾斜がかかった道を進むと、道が崖にぶち当たる付近に、二つの壕がある。身長175センチの記者の頭がすれすれの真っ暗な壕にライトを照らすと、奥行きは十数メートル程度だと分かる。幅は2メートルほどだ。

 カグラコウモリが羽を休めるこの二つの壕は当時の八重山支庁が設置したもので、奥の壕には天皇・皇后の写真「御真影」が移送されてきたという。軍命で森に避難させられ命を落とした住民と、壕が掘られてまで守られようとした写真。対照的な構図が同居する白水に、戦争に突き進んだかつてのこの国の姿が映し出されているように見えた。

<メモ>名蔵白水の戦争遺跡群

 戦時中の石垣町字登野城・大川住民の指定避難地で、多くのマラリア罹患(りかん)者が発生した。住民生活の跡が残るほか、L字型の塹壕(ざんごう)なども確認できる。日本軍部隊も駐屯し、慰安所もあったとされる。2009年3月30日に市指定史跡となった。

 

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<記者の目>罹患の恐怖 森の中で実感/大嶺雅俊(八重山支局長)

大嶺雅俊(八重山支局長)

 白水で取材したのは6月20日。75年前のちょうどこの時期には、多くの住民が強制避難させられたこの地で昼夜を過ごし、おそらくマラリアに罹患(りかん)する住民も出始めていた時期だと思う。自分がいつ罹患するかも分からない恐怖とも闘っていただろう。

 うっそうとした森林地帯でそんな光景を想像すると、いかに自分が平和な時を過ごしているのかが改めて実感できた。だからこそ軍命だからと従わざるを得なかった時代に戻らないため、自分には何ができるか考え続けなければいけないと思った。
 (2009年入社、33歳)