ヌーザランミ特攻艇秘匿壕(宮古島市)特攻艇という名の「棺おけ」を格納 米軍上陸に備え出撃訓練重ね <記者が歩く戦場の爪痕>


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ヌーザランミ特攻艇秘匿壕の壕口で解説する宮古島市教育委員会文化財係の久貝春陽主事=22日、宮古島市狩俣

 足元を懐中電灯で照らすと、何かを引きずった跡が残る。戦後75年がたった今も残るその跡は、特攻艇という名の自らの「棺おけ」を日本兵たちが壕内へと秘匿、格納した跡だ。約束された死が迫り来る兵士たちの不安と恐怖、覚悟がこの運搬跡に刻まれているような気がした。

 宮古島の北部、市狩俣集落にある「ヌーザランミ特攻艇秘匿壕(海軍特攻艇格納秘匿壕)」は、市指定文化財の戦争遺跡の一つ。宮古ブルーと呼ばれる海の美しさを目当てに多くの観光客が訪れる行楽地、宮古島海中公園に隣接する。パパイヤやアダンが茂る丘陵地に掘られた壕は外から見ても分からない。「ここが入り口です」。宮古島市教育委員会文化財係の久貝春陽(はるお)主事が指し示す先に、高さ約2・5メートル、横約3・5メートルの壕口がぽっかりと空いていた。

 戦中、日本軍は米軍の上陸を想定し、宮古島に約3万人もの将兵を配備した。海岸線に水際陣地や特攻艇秘匿壕、海軍砲台などを構築して兵力を集中させ、一挙に敵軍を壊滅させる水際作戦を遂行した。米軍は上陸せず地上戦がなかったため、軍事施設の多くが破壊されず島内各地に残る。

 久貝さんによると、ヌーザランミ秘匿壕は海軍第313設営隊が構築し、1945年3月1日から第41震洋隊(八木部隊)約180人が配置された。「ここには41艇の特攻艇が格納されていました。出撃訓練を重ねていたようですが、米軍上陸がなかったため出撃していません」と解説する。

 壕口は北側四つ、西側二つの計六つあり内部でつながっている。総延長は約300メートルで、一部を除き、ほとんど崩れていない。天井の高さも一定しており窮屈感はない。内部には掘削のため爆薬を詰めた穴なども確認できる。

 八光湾に面した西側の壕口に残る特攻艇の運搬レール跡を指先でなぞってみる。このレールの行く先に待ち受けるのは死だ。日本軍に特攻艇乗組員として命そのものを兵器にされてしまった兵士は、薄暗い壕の中で何を思って過ごしていたのだろう。戦勝より父母や妻子、愛する人の幸せを祈っていたのではないか。

壕内に残る大量のアフリカマイマイなどカタツムリの殻=22日、宮古島市狩俣

 「こんなところで生活したくないし、させたくない」。島内の戦争遺跡の調査を進める久貝さんは壕跡に来ると実感する。住民は空襲が始まると避難壕に隠れた。ごう音におびえながら息を殺した。「壕に入ると誰もが当時の住民の不安と恐怖を肌で感じ、戦争してはいけないと強く実感すると思います」

 壕内を歩いていると、ふいに足元からじゃりじゃりと音がなった。「カタツムリの殻ですよ」と久貝さんが笑う。地面には大量の殻が散乱していた。戦後の食糧難の中、住民が食べるためにアフリカマイマイなどカタツムリの養殖にこの壕を利用していたという。

 死地に向かう兵士が過ごした壕は、戦後、住民が未来へと向かう活力を育てる場所へと変貌した。数え切れないカタツムリの殻に戦火を生き抜いた島の人々のたくましさが見えた気がした。


<メモ>特攻艇

沖縄本島でみつかった日本軍の特攻艇(沖縄県公文書館所蔵)

 爆弾を積んだまま米軍戦艦に兵士もろとも体当たりして自爆する兵器。陸軍水上特攻艇「四式肉薄攻撃艇マルレ」と海軍水上特攻艇「震洋」があった。ともにベニヤ製で250キロの爆弾を積載していた。マルレは当初、爆弾投下後に離脱する考えで開発されたため船体後部に爆弾を積んでいた。

 一方、震洋は初めから自爆目的で設計されており船首内部に爆弾を積んでいた。実際の戦闘では敵船に肉薄することも難しく、ほとんど戦果は得られず、多くの兵士が命を失った。


<記者の目>物言わぬ語り部“戦世”生々しく 佐野真慈(宮古支局長)

佐野真慈(宮古支局長)

 同行していただいた久貝春陽さんによると司令部壕や特攻艇秘匿壕、住民避難壕など島内の戦争遺跡は約130カ所。うち約40カ所はすでに開発などで取り壊された。

 弾痕や遺品、煮炊きした跡。県内のそこかしこにある戦争遺跡は“戦世”を生々しく伝える「物言わぬ語り部」だと実感した。

 戦後75年がたち、県民の9割が戦争を知らない世代になった。戦跡の維持費をどうするのか、誰が管理するのか。乗り越えないといけない課題は多い。物言わぬ語り部を後世に一つでも多く残せるよう新聞に何ができるか考えたい。

(2012年入社、37歳)