「32軍壕は沖縄戦の重要戦跡」 牛島満司令官の孫貞満さんが現地に 保存・公開求める会とも意見交換


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首里城地下に眠る日本軍第32軍司令部壕の近くを歩く(左から)牛島満司令官の孫・牛島貞満さんと第32軍司令部壕保存・公開を求める会の瀬名波栄喜さん、垣花豊順さん=25日午後2時20分、那覇市

 土砂降りの雨の中、祖父がいた日本軍第32軍司令部壕の入り口近くを歩く。「坑道の入り口はここじゃない」「この立坑がどこに出ているのか知りたかったんです」。雨にぬれながら、一カ所一カ所歩いて確かめていく。75年前、沖縄戦で日本軍を指揮した第32軍牛島満司令官の孫、牛島貞満さん(66)=東京都=は、32軍壕の保存・公開を含めた沖縄戦継承への思いを強くしている。「司令部壕は、県民や一般兵士の犠牲を強いた『南部撤退』を決めた場所だった。沖縄戦の悲劇は32軍の非情な命令があったから。沖縄戦の悲惨さを語り継ぐ場所として、大切な場所だ」

 東京都内で小学校教諭を務めた牛島さんは、慰霊の日を中心に沖縄を訪れている。40歳になるまでは沖縄に来られなかった。「沖縄県民を犠牲にした司令官の家族という立場で、沖縄に行ったらどんな風に見られるか分からなかった」。祖父の足跡をたどる中で、戦争体験者や沖縄で平和継承に取り組む先輩たちに出会った。「いろんなことを教わった。恩返しも含め、次の世代に平和を伝えなければいけない」

壕内で見つかったビン類やタンクを確認する牛島貞満さん=1997年8月、調査DVD映像から

 牛島さんはこの日、第32軍司令部壕保存・公開を求める会の瀬名波栄喜さん(91)や垣花豊順さん(86)らと会い、1997年に司令部壕に入ったことや、司令部壕を歴史・平和学習の場にすることについて話し合った。

 97年の調査では、実際に第5坑道と第3坑道入り口近くから司令部壕に入った。当時の映像を見ながら、荷物を運んだとみられるレール跡やそのまま残っていた木の杭なども確認した。牛島さんは「首里でそのまま持久戦をするという選択もあったはずだろう。住民のいる所が戦場になると分かっていながら、南部撤退の決裁をした。住民と兵士を犠牲にしてしまった」と語る。

 沖縄戦継承や平和への思いを強く抱く牛島さんは最後にこう強調した。「32軍壕は、沖縄戦の重要な戦跡であると誰もが認めている。保存・公開は、沖縄の人たちが決めていくべきものです」

(阪口彩子)