前川民間防空壕群(南城市玉城) 約60基を住民が掘る 戦闘、強制集団死…沖縄戦凝縮の場<記者が歩く戦場の爪痕>


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 南城市玉城前川に「前川樋川(ヒージャー)」と呼ばれる湧き水がある。石でできた階段を下りると、生い茂る草木とこけむす石畳道に太陽の光が差し込み、水の流れる音色が涼を感じさせる。しかし辺りを見渡すと、断崖の中腹には無数の人工的な穴が目に付く。しゃがんで入れるほどのぽっかりと開いた穴は、癒やしをかき消すように、75年前の悲劇を思い起こさせる。

前川民間防空壕群を案内する仲程勝哉さん=13日、南城市玉城前川

 穴は前川の住民が掘った「前川民間防空壕群」だ。雄樋川に沿って全長約1キロにわたって約60基の壕がある。1944年の10・10空襲後、前川の住民は2~3世帯ずつ共同で壕を掘り始めた。県内の民間壕群では最大規模の数という。県文化振興会公文書管理課職員で、前川民間防空壕群の調査を経験した仲程勝哉(31)さんが案内してくれた。

 クモの巣をかき分け、ハブがいないか確認しながら一つの壕に入る。壕の大きさ、形状はさまざまだが、かがんで座るほどの高さしかない壕も多い。中へ入るとうっすら光が差し込む程度でひんやりしていて、身動きが取りづらい。「1時間は我慢できるが、それ以上いると腰が痛くなる」と仲程さん。住民たちが長い間、砲弾の音が響く中でひっそりと壕に隠れていたことを想像すると、戦争の壮絶さを感じる。

 明かりを置くためのくぼみが内部に掘られている壕や、雨水が流れてこないようにするためと見られる溝が、壕口のアーチに沿って刻み込まれた壕もある。大人が立って歩ける高さの壕もあり、爆風よけとなる壁、壕を補強する坑木用に掘ったものと思われる溝などがあった。仲程さんは「この壕は軍隊出身の人が掘った可能性がある」と推測した。

壕の入り口がいくつも並ぶ前川民間防空壕群=13日、南城市玉城前川

 前川の住民は45年3月下旬の空襲後から本格的な壕での生活を始める。5月下旬には米軍が南部に侵攻。戦闘が激しくなると、住民は壕に残るか、壕を出て南に逃げるか選択を余儀なくされた。現在も前川に住む徳田ユキさん(84)は、父親が掘った壕に家族と一緒に隠れていたが、日本兵と区長が何度も訪ねてきて「米軍は南風原まで来ている。壕を出なさい」と迫った。「父はシマ(集落)に残ると言い張ったが、姉がほかの人たちと同様に島尻へ向かった方がいいと父を引っ張り、家族全員で南部へ向かった」という。糸満方面で激しい戦闘に巻き込まれ、徳田さんは一人だけ生き残り戦争孤児となった。

徳田ユキさん

 一方、徳田さんの夫は当時、前川の壕の一つに避難していたが、家族と壕にとどまり、全員助かったという。徳田さんは「前川に残った人はほとんど助かっている」と悔やむ。

 入り口がふさがれているいくつかの壕がある。仲程さんは「ふさがれた壕の一部には、集団自決(強制集団死)や爆弾で家族を失った所もあるそうだ」と語る。前川民間防空壕群では「集団自決」(強制集団死)によって20人余りが命を落としている。「思い出すのがつらい」という遺族の気持ちが、塗り固められた壕口から伝わってくる。

 壕に残り助かった人、追い出されて激しい戦闘に巻き込まれた人、そして強制集団死。ここは「沖縄戦の縮図」のような場所だと強く感じた。

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<メモ>前川民間防空壕群

 前川集落の西側約300~400メートルの地域で、雄樋川沿いの崖の中腹に開口部がある。壕内部の壁面はつるはしで掘ったり、削ったりした跡が残っている。多くの壕が内部で連結する構造となっている。


<記者の目>命育んだ樋川 恐怖の場所に/金城実倫(南部報道部)

金城実倫(南部報道部)

 壕内には沖縄戦当時に使われたと思われる陶器がいくつか残っていた。75年前、住民たちが艦砲射撃の轟(ごう)音におびえながら体をすくめて生活していたことを想像すると、胸が張り裂けそうになった。壕から外へ出た時は、木々の隙間から降り注ぐ木漏れ日がまぶしく、前川樋川のせせらぎの音が心地よく聞こえた。

 住民の生活を豊かにし、命を育んできた前川樋川を、悲しみと恐怖の場所に変えた戦争は非情だ。徳田ユキさんが私に伝えてくれた「戦争というものが世界中から無くなってほしい」という言葉を胸に、ペンを握っていきたい。

(2015年入社、34歳)