「新年の花火嫌がった」消えない爆撃の記憶 沖縄戦を日記に残した與儀さん、遺言で「体験伝えて」


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戦後、ハワイに移住した與儀達清さん(前列右)一家の集合写真。(前列左から)妻チヨさん、三男正さん、(後列左から)長女エミさん、次女幸子さん、次男隆さん=1956年、米ハワイ(隆さん提供)

 「新年の花火を嫌がっていた。沖縄戦の爆撃を思い出したからだ」。戦時中の出来事を日記に記していた與儀達清さん(当時38歳)は戦後、米ハワイ州に移住しても爆撃の記憶に悩まされていた。次男の隆さん(77)は「祖父など身近な人が沖縄戦で亡くなり、罪のない多くの住民の命が奪われた。戦争に頼らない平和を模索すべきだ」と訴えた。

 與儀さん一家は戦後、妻チヨさん(ハワイ出身)の兄の計らいで、ハワイに移住した。子どもたちが進学で家を離れた後、達清さんとチヨさん夫妻は米カリフォルニア州に移住した。現在は長女エミさん(83)、次男隆さん、次女幸子さん(75)も同州に在住する。

 沖縄戦当時2歳だった隆さんは戦争の記憶はなく、成人してから両親に沖縄戦について詳しく聞いたという。1988年に達清さんが他界した後、チヨさんに日記を託された。両親から聞き取った内容も踏まえて日記の内容を編集して英語に翻訳し、88年に公開した。

 達清さんは戦後、沖縄で貨物船の荷役、チヨさんは米軍と地域住民の通訳として働き、生計を立てた。チヨさんと子どもたちは48年にハワイに移住し、達清さんはビザが取得できた52年に家族と合流した。

 一家のハワイでの生活について、隆さんは「父は英語が話せず、現地の学校に通い直して英語を学んだ。父は保険のセールス、母はホテルの従業員として働いたが、非常に困窮していた」と振り返る。こうした一家をチヨさんのきょうだいをはじめ、県系人が助けたという。

 次男の隆さんは医療機器の技術者として働き、退職後は平和活動などに参加している。本紙の取材に対し、隆さんは「私たちが大人になるまで両親は戦争の話をしなかった。母によると戦時中、私はいつも『ひもじい、ひもじい』と話していたようだ」と振り返る。隆さんは「両親は『沖縄戦を生き延びた者は、二度と同じような思いをして苦しむ人が出ないよう、体験を伝えていく責任がある』と私たちに遺言をした。父の日記で当時の沖縄戦がどのようなものだったのか、今の沖縄の人にも知ってほしい」と強調した。


「幸子が泣き続ける」 戦闘、一家巻き添えに
 

 與儀達清さんの日記には、米軍の沖縄本島上陸を前に北部への避難を諦め、激戦地の南部を転々とする様子が記録されている。45年6月15日、糸満市福地の山に避難中に砲撃が激しくなり「幸子(当時11カ月)が泣き続ける」との記述もあり、子どもたちが不安定になっていく緊迫感も伝わる。

 米軍上陸が迫った45年3月25日、一家は那覇を出発し北上するも、激しい砲撃のため宜野湾で足止めを食らった。防衛庁防衛研究所の「沖縄方面陸軍作戦」(1968年発刊)によると、日本軍司令部は戦況の切迫を理由に、45年3月31日に北部移動の停止を命令した。達清さんは宜野湾の壕に避難中に会った人たちが「米軍が間もなく国頭に上陸するはずだ」と話しているのを聞き、南部に向かった。

 4月30日の富盛(八重瀬町)での日記には「軍は喜屋武、真壁、摩文仁、具志頭に行くよう通達」と行き先を指示されたことを記録した。5月1日に真栄平(糸満市)に到着したが「疲れ切ってしまい、摩文仁に行かないことにした」。同24日には一転して「玉城に行くようにとの軍の指示が回ってきた」と来た道を戻ることを強いられる。一家は富里(南城市)に向かったが、方向が分からず、家族は道ばたで眠りに落ちてしまう。

 一方、警察は軍とは別の指示を出す。翌25日に屋嘉部集落(南城市)で警備課の一行に会い、真壁(糸満市)に戻るよう勧められた。「出発したが、雨が降り、すぐ引き返した」

 一家はその後も南部の激戦地を転々とした後、6月14日に福地(糸満市)に到着し、山中に身を潜めた。16日に真栄里(同)に向かう途中、名城(同)に差し掛かったところ、米軍の攻撃にさらされ、岩陰に隠れた。20日、一家は名城ビーチで米軍に見つかり、保護された。

 日記を分析した沖縄戦研究家の保坂廣志氏は「これまで南部の戦場で記録された兵士や住民の日記は見つかっておらず、沖縄戦の証言記録の源泉と言える。生きることを諦めなかった一家の姿が生々しく刻まれている」と述べた。