山城壕(糸満市)連絡なしに国が整地 生き埋めの5人「遺骨あるはずなのに」<記者が歩く戦場の爪痕>


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整地された山城壕跡地付近で、壕の位置を指さして説明する山城区長の仲門保さん(左)=20日、糸満市山城

 糸満市の山城(やまぐすく)区と束辺名(つかへな)区の境界付近の山中に、沖縄戦当時一家5人が生き埋めになった山城壕がある。2月末、約45年ぶりに遺骨収集作業があったと聞き、山城区長の仲門保さん(70)に案内を依頼した。しかし―。

 「無理だよ」。怒ったような口調で一度断られた。「案内したいができないんだ。まだ遺骨はあるはずなのに、連絡もなく国に整地された。跡形もないよ」。とにかく、現場を案内してもらった。

 仲門さんが保管していた山城壕に関する厚生省(当時)の記録によれば、山城壕は束辺名集落から約300メートルにあり、岩石の山とサトウキビ畑に囲まれていた。

山城区の区長、仲門保さんが保管していた、1975年頃の厚生省(当時)が作成した手書きの資料。山城壕の位置や、落盤した岩の状況予想図などが記録されている

 山城区の住民証言によると、1945年の梅雨の時期、山城壕には桃原一家6人が身を潜めていた。砲撃で壕の岩盤が崩れ落ち、5人を中に残したまま壕口がふさがれてしまった。末娘のキヨさん(当時10代)は外にいて助かったが、叔母のウサさん、母カマさん、妹トヨさん、弟の亀助さんと亀吉さんは生き埋めになった。キヨさんは、山城壕から直線距離で約700メートル先にあるマヤーガマへ助けを求めた。ガマには山城の住民ら数十人が避難していた。当時の様子を、マヤーガマに避難していた仲門キクさん(87)が覚えていた。「夜、男たちが山城壕に出掛けていった。道具はないから手で岩石をどかした。明るくなると攻撃が始まるから、その前に戻ってきた」。男たちの表情は暗く、怒りと焦りに満ちていたという。「崩れた岩の奥から『助けて』と声が聞こえる。奥で生きているんだ」。連夜作業を続けたが、2~3日後に声は途絶えた。

 戦後、山城区は行政に遺骨収集を求めた。75年2月、1回目の遺骨収集が実施されたが安全の確保ができず中止。翌年2月の作業では壕を掘り当て、遺骨(大腿(だいたい)骨1、骨片1)が収集された。そしてことし2月末。3度目の遺骨収集で、膝下の足の骨が発見された。

 ただ今回の作業について、山城区は喜ぶことができなかった。事前連絡がなく、気付けば山城壕が整地されていたからだ。厚生労働省に問い合わせると、壕は束辺名区に位置することから山城区には連絡せず、今回の作業で遺骨収集は「おおむね完了」したため、整地したという。

 「犠牲になった桃原一家の遺族、関係者に対して何の連絡もなくつぶすなんて」。6月20日。山城壕の“跡地”に向かった。資料に記されていた、壕の目印になる大きな岩石も見当たらない。破砕された岩石は崖の斜面に並べて転がっていた。木の枝は切り倒され、眼下にはキビ畑が広がっていた。ここに壕があったことが想像できない。「山の形が変わっている」。仲門さんでさえ、壕の正確な位置が分からなくなっていた。 

 仲門さんは戦後75年がたち、体験者の減少に加え、安全の確保などの理由から非公開となる戦跡が増えていることにも危機感を感じている。「歴史を語り継ぐため、戦跡は当時の様子を感じ取れる大切な場所だ。体験の記録と同様に戦跡の保存も重要だ」と語った。

 地権者ではないから、所在地が山城区ではないからという行政的な考えで、知らぬうちに消滅した山城壕。事務的に戦後処理を進める国と、歴史を語り継ぐ住民との意識の差を感じた。

<メモ>山城壕

 糸満市束辺名(つかへな)区にあった壕。山城区と束辺名区の境界付近にあった。戦前に掘られた壕で、日本軍が掘ったとする記述と、民間人が掘ったとする住民の証言がある。高さ約2メートル、奥行き2~3メートルだったと推測されている。現在は残っていない。


<記者の目>戦跡の保存へ 目を向ける時/嘉数陽(南部報道部)

嘉数陽(南部報道部)

 無断でつぶされた壕跡地を前に、仲門さんが「許せない」とつぶやいたのが胸に重く残っている。

 沖縄戦は、文字や映像、音声などさまざまな方法で記録されてきた。見て触って体感できる戦跡はどうか。安全確保にかかる費用など課題はあるだろうが、十分に検討され、保存されてきたのか。私の祖母は、生涯自身の体験談を話さなかった。誰もが語れるわけではない。体験者が減少する中で確実に次世代へ継承するためにも、戦跡保存の必要性にいま一度目を向けるべきだろう。

 (2016年入社、34歳)