絶壁の手前、赤子を抱き逃げた「母の理由」 76歳、庭の石に捧げる三線 テニアン・サイパン戦闘終結76年


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遺骨の代わりにテニアン島から石を持ち帰り自宅の庭に並べている。その前で平和を願い歌う伊波正博さん=6日、うるま市

 サイパン、テニアンなど南洋群島で日本軍による組織的戦闘が終結してから7日で76年になる。日米両軍による地上戦が繰り広げられた南洋群島は、沖縄からの移民が多く、県出身者1万2826人が犠牲になった。テニアン島で生まれたうるま市の伊波正博さん(76)は、母・チヨさんが守ってくれた命の重みをかみしめている。

 「オバー」「テニアン」「サイパン」とそれぞれ書かれた小さな石が自宅の庭の隅っこに並べられていた。テニアン島から持ち帰った。「6月23日はここで線香をたいて、手を合わせた。7日もそうする予定だよ」

 伊波さんは、ちょうど76年前、テニアン島のアシーガ岬近くにある壕の中で母の手に抱かれていた。同じ壕には、住民だけでなく日本軍もいた。赤ん坊だった伊波さんが泣き出すのを恐れた兵士が、伊波さん一家5人を追い出した。「壕から出されて手りゅう弾もないし、全員で絶壁から飛び降りて死のうとしたらしい。その時、母親がその場から逃げた」

 伊波さんを抱いた母・チヨさんを父・正二さんと祖父母は追い掛けた。途中で祖父母が砲弾に当たって亡くなり、3人は米軍の収容施設に入れられた。

 「何で逃げたか? と聞いたら、もうすぐ僕の誕生日だったからと。どうせ死ぬなら、僕のタンカーユーエー(1歳の誕生祝い)をしてから死にたい、と思っていたらしい」。戦後、伊波さんは親族に当時の事を尋ねた。7月18日生まれの伊波さんのために、チヨさんはその時、わずかな米と食紅を手に握っていた。赤飯をたくつもりだった。1歳の誕生日は収容施設で祝ったという。

 2018年と19年、サイパンで執り行われた「全南洋群島沖縄県人戦没者慰霊祭」に参列し、家族が飛び込もうとした崖をのぞいた。「絶対助からない場所だった。母親がいなかったら僕は今ここにいなかった」。そう言い、三線を奏で始めた。歌に乗せ平和の尊さを語り継いでいくつもりだ。
 (阪口彩子)


<用語>南洋群島と沖縄

 南洋群島は県出身者が多く移住し、日本人全体の約6割を県人が占めた。米軍が1944年6月にサイパンに上陸、日本軍による住民の壕追い出しや住民の「集団自決」(強制集団死)など、沖縄戦と同様の悲劇が起きた。68年にはサイパンに「おきなわの塔」が建立された。