母、泣く弟連れ壕の外へ 岳原初子さん 収容所で(2)<読者と刻む沖縄戦>


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現在のうるま市江洲の集落

 具志川村(現うるま市)江洲で生まれ育った岳原初子さん(86)=沖縄市=は家族と共に東村へ避難します。時期ははっきりしませんが「10・10空襲のしばらく後。まだ暑い時期でした」と語ります。岳原さんが通っていた学校の教師は早い時期の疎開に驚いていたといいます。

 避難したのは両親、姉、妹、弟2人らです。長姉と祖母は江洲に残りました。馬車に家財道具を載せ、金武、名護を経て、3日かけて東村へ着きました。

 家族は当初、集落内の一軒家で暮らしました。しかし、程なくして集落近くにある壕で避難するようになります。10・10空襲以降、北部3村には中南部から多くの避難民が集まっていました。

 45年2月に県が中南部住民を北部へ移動する「北部疎開計画」を出して以後、避難民はさらに増えていきます。食糧も不足するようになり、地元住民と避難民の摩擦も起きました。

 その頃のつらい思い出があります。避難民や住民でいっぱいの壕で弟が空腹で泣き出し、壕内の人々からとがめられたことがありました。やむなく母キヨさんは弟を連れて壕を出たといいます。

 「私は母の着物の帯をつかんで『殺さないで、殺さないで』と泣いてお願いしました。戦争はこういうもの。それは体験者しか分かりません。戦争が憎い」

 家族はその後、集落を離れ、山奥に避難します。