命拾い2度の不思議体験 沖縄戦生き抜いた89歳の証言


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戦争時を振り返る渡久地昇永さん=本部町伊野波の自宅

 【本部】伊江小などで校長を務めた渡久地昇永さん(89)=本部町伊野波=は、75年前の沖縄戦中、2度にわたり九死に一生を得た。いつ誰が亡くなってもおかしくない戦場で、生死をかけた選択を迫られた時、「不可解な体験」が味方して戦火を逃れることができた。

 1944年、13歳だった渡久地さんは本部国民学校高等科に在学していた。戦争が近づき、本土へ学童集団疎開することになった。出発する日の朝、仏壇で亡き父に「無事に目的地に到着できるように」と合掌すると突然、縁側で失神した。母のかまどさんは「先祖からの指導だ」と疎開を取りやめた。

 学校の先生や隣区の知人は、疎開の学童らを乗せた対馬丸に乗船。8月22日、船は米潜水艦に撃沈され乗船者の多くは帰らぬ人となった。共に疎開するはずだった友人3人は別便の船に乗っており無事だった。「今振り返ると、一瞬にしてこれほどの幼い犠牲者が出るなんて」と話し、戦争の不条理をかみしめる。

 米軍上陸が迫った45年3月25日、米軍の艦砲射撃が始まった。並里と伊豆味の境にある森へ避難した。家族5人で身を隠すため、木立のように立ち並ぶ岩の中に天蓋(てんがい)を作り、2週間以上息を潜めた。

 伯父が訪ねてきて「ここにいては一族の全滅は免れない」と言い、長男の渡久地さんを八重岳方面へ避難させようとした。母のかまどさんは苦渋の表情で提案を受け入れた。妹の髪の毛を切ってポケットに詰めて別れを告げようとした時、再び気を失った。かまどさんは「神のお告げ」と受け止め、避難を中止した。

 避難しようとしていた八重岳では、激しい戦闘が繰り広げられ「死体が散乱していたそうだ」と振り返る。

 今年6月24日には名護市の「南燈慰霊の塔」を訪れた。「手を合わせると涙が止まらなかった。どんなことがあっても、二度と戦争を起こしてはいけない」と力強く話した。
 (喜屋武研伍)