悲劇、誰にも話さなかった 妻子5人失った元村長の戦後 対馬丸撃沈


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祖父の写真を見ながら思い出を語る渡名喜元嗣さん=18日、南城市佐敷

 対馬丸の撃沈で妻子5人を失った悲しみを日記に書き残した渡名喜元秀さん(当時51歳)。戦後は沖縄民政府職員として農村復興に携わり、佐敷村議会議長や同村長も務めた。対馬丸撃沈について周囲に語ることはなかったが、心には消えない傷を抱えていたことが関係者の話や残された資料からうかがえる。

 元秀さんの孫の渡名喜元嗣さん(69)=南城市=は祖父について「明治の人間という感じで真面目な人だった。かわいがってもらった」と思い出す。幼い頃、対馬丸犠牲者を慰霊する小桜の塔に一緒に行ったことがある。「私が幼かったせいもあるだろうが、対馬丸の話を聞いたことは一度もない。誰にも話さなかったと思う」と振り返る。

 遺族への聞き取り調査を続ける対馬丸記念館には、元秀さんの三男・元次さん(故人)の証言が残っている。元次さんは「父に何度か対馬丸の話を聞こうとしたが『その話はやめろ』と兄に制止され、父が死ぬまでについに一度も対馬丸の話を聞くことはなかった」と語っている。

役場職員と記念撮影をする佐敷村長時代の渡名喜元秀さん(前列右から3人目)。足下にいるのは孫の元嗣さん=1954年2月(渡名喜元嗣さん提供)
今年3月に刊行された「南城市の沖縄戦 資料編」。渡名喜元秀さんの日記を初めて公開した

 1959年に元次さんは元秀さんから母ときょうだいの写真を託された。「父の家族に対する無念の思いに触れたのは、この時が最初で最後だ。父がどんな思いで戦後を過ごしてきたのか知る由もありません」と思いを述べている。この写真は現在、同館に遺影として掲示されている。

 1984年9月8日付の琉球新報には、元秀さんと戦後に再婚した妻・ウトさんの談話が掲載されている。「表面上は忘れたそぶりを見せていたが、船で上京した時などは港に着いても船内にぼうぜんと座り込んで、人の助けを借りてやっと下船したほど」と証言しており、戦後も対馬丸撃沈による心の傷が深く残っていたことが分かる。

 対馬丸記念館学芸員の渡名喜琴音さんは「戦後、対馬丸のことを思い出したり、話したりすることができなかった遺族は多いようだ。特に子供を失った父母の多くが悲しみから口を閉ざした。遺族の気持ちを知ることができる日記は貴重だ」と述べた。

(赤嶺玲子)