妻子5人失い「絶望」 「対馬丸」遺族、元村長の日記を公開


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対馬丸記念館に掲示されている渡名喜元秀さんの妻のフサさんと子の元三さん(上段左)、ヒデ子さん(同右)、和子さん(下段左)、興淳さんの遺影

 児童や一般疎開者らを乗せた「対馬丸」が米潜水艦に撃沈された日から22日で76年。生存者や遺族が少なくなる中、当時の遺族の心境を知ることができる日記が今年3月に南城市教育委員会が刊行した「南城市の沖縄戦 資料編」で初公開された。日記を書いたのは戦後に佐敷村長を務めた渡名喜元秀さん(1972年に他界)。対馬丸の撃沈で妻子5人を失った。日記には「生涯取リ返シノツカナイ誤断ヲシタ」とあり後悔が伝わる。

 同資料編を編集した南城市史編さん専門員の山内優希さんは「リアルタイムに書かれたもので、事件当時、遺族が何を思っていたのかをうかがい知ることができる貴重な資料だ」と語る。日記は1944年3月から始まり沖縄戦中の45年5月2日で終わる。同資料編では対馬丸に関する部分を抜粋して掲載した。

渡名喜元秀さん

 対馬丸関連の記述が最初に出るのは44年7月20日。サイパンの日本軍全滅で米軍の沖縄上陸が必至となり、国と県は老人や女性、子どもなどの県外疎開を進めた。当時、県庁職員だった元秀さんも方針に従い妻子を疎開させた。

 8月19日の日記には妻子5人の転出申告と証明書を取得したことが記されているが、その横には「一生涯ノ誤ヲ起ス」と追記がある。後日、対馬丸の遭難を知り、悔やむ気持ちを書き加えたものとみられる。

 8月21日には妻子の乗る対馬丸が出港。翌22日の日記には「家ハ火ノ消ヘタル如ク静淋」とあり、家族を見送った後の寂しい心情が伝わる。この日の夜に対馬丸は撃沈された。

 日記によると、元秀さんが「風聞」(うわさ)で対馬丸遭難を知ったのは8月25、26日頃。9月に入ると「犠牲者ハ少ナキ模様」「死傷者159人」「口外無用ノコト」と記しており、情報が交錯する状況が伺える。妻子の安否を知るために話を聞き回ったようだ。9月11日には生存者の中に妻子がいないことを知り「絶望」と書いた。その後、遺品整理をしたことや知人や親戚が頻繁に見舞いに来てくれたこと、遺骨がないので魂を港で迎えたことなどを細かく記しており、対馬丸撃沈後の元秀さんの生活が垣間見える。

 南城市史編さん専門員の山城彰子さんは「人々が何を考え、どう過ごしたのかは公の資料からは見えにくい。残された人が傷を抱えながら暮らしを続けていたことが日記から分かる。人々の人生や思いに触れることができる資料だ」と話した。

 南城市史編さん係によると現在、日記の原本は所在不明という。旧佐敷町史編さん室が日記を収集し、文字起こししたものを同市が引き継ぎ保管していた。(赤嶺玲子)