児童や一般の疎開者を乗せた輸送船「対馬丸」が米軍魚雷の攻撃によって沈没してから22日で76年。那覇市若狭の対馬丸記念館では、今年9人の遺影が新たに掲げられた。知名美智子さん(82)=那覇市=は21日、同記念館を訪れて父、喜屋武盛好さん(享年38歳)の遺影を掲げた。対馬丸の生存者でもある知名さんは「やっと掲示できて安心した。でも親は1人しかいない。返してほしい」と父の写真を見つめ涙ぐんだ。
当時6歳の知名さんは疎開のために両親、兄盛宣さんや親族らと対馬丸に乗船した。「父は自転車屋で働いていて体格が良く、母に優しかった」ことをかすかに覚えている。
米軍の攻撃を受けた時は家族で甲板にいた。「船が大きく揺れて、気がついたら海の中だった。耳に砂が入ったような感覚だった」
家族は離れ離れになった。知名さんは三日三晩いかだで漂い、貨物船に助けられた。「竹のいかだ一つに十数人乗っていたが、日に日に人が減っていった。とにかく水が欲しかった」と振り返る。救助され陸に上がった後、母と兄には再会したが、父の姿はなかった。
母は対馬丸が沈められた翌年に栄養失調で亡くなった。知名さんは叔父夫婦に育てられ、宮崎で終戦を迎えた。9歳のころ、沖縄に引き揚げた。
知名さんには子どもが3人いるが「聞かれないから」とこれまで対馬丸での体験を話すことはあまりなかった。父盛好さんの遺品は一つもなく、遺骨も上がっていない。両親を亡くした知名さんは「死んだ方が楽だった。残された方は大変」とつぶやいた。
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