久米島の「6・23」以後 問い掛ける「痛恨之碑」<おきなわ巡考記>藤原健(本紙客員編集委員)


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 75年前の9月7日。沖縄本島・越来村森根の米軍司令部前広場で、南西諸島の日本軍の代表3人が降伏文書に調印した。この日、久米島でも日本軍が投降し、指揮官の鹿山正兵曹長が軍刀をうやうやしく差し出す写真が残されている。一見、平穏な式典だ。しかし、久米島の当時の農業会長は日記にこう記す。「これで鹿山の危害を免れた人々がホッとしたことである」。

 日記は何を意味しているのだろうか。

 沖縄の戦場の惨劇を縦4メートル、横8・5メートルの巨大なキャンバスに展開した丸木位里、俊夫妻の大作「沖縄戦の図」(宜野湾市・佐喜眞美術館所蔵)で、向かって右の隅の薄暗い色調の中に「痛恨之碑」が描かれている。碑の文言には、「天皇の軍隊に虐殺された久米島住民・久米島在朝鮮人」と。その碑は、久米島の西部、字西銘のサトウキビ畑の一角に建つ。

 碑文の下に刻まれているはずの犠牲者名は、絵画の中では、より濃くなった色彩で判読できない。代わりに目にするのは、死者の骸骨だ。目を凝らすと、夫妻自身と見られる顔も描き込んである。そこには、軍の非道に対してだけでなく、それを許した時代と自らへの怒り、憤りをも強く感じ取れる。なぜ、軍は住民の殺戮(さつりく)を繰り返したか。その責任を私たちは十分に問うてきたのか。

 沖縄戦当時、久米島には海軍の特設見張所があり、約30人が駐屯していた。これに、沖縄本島から脱出した兵などが加わって日本軍は総勢約40人。6月26日に上陸した千人近い米軍と戦えるはずもない。「全員最後ノ突撃ヲ敢行ス」と威勢よく決別電を発したものの、実は山中に逃げ込み、極度の猜疑心(さいぎしん)から住民を次々に殺害した。

 虐殺は「6・23」以後に引き起こされた。最初は、6月27日。米軍の指示で山に降伏勧告状を届けた男性が射殺された。その2日後、9人が斬殺され、家も焼き払われた。うち2人が偵察中の米軍に拉致された後、解放されたことを「スパイ」とされ、農民の姿に変装した兵士が山を下り、「処刑」に及んだ。

 「8・15」以後も、まだ終わらない。8月18日、沖縄本島で捕虜になっていた久米島出身の海軍上等兵が妻子ともども刺し殺された。本島の収容所で故郷への艦砲攻撃が始まりそうだと聞き、中止を説いて米軍の上陸に同行し、その後も島にとどまって住民に米軍への投降を呼びかけて回った。この行動に目をつけられた。

 2日後、朝鮮半島出身の夫と妻、10歳の長男、7歳の長女、5歳の二男、2歳の二女、生後間もない乳児の家族7人が皆殺しにされた。さらに住民の指導者を含む40人の処刑リストがつくられ、降伏2日後の9月9日に実行予定だった。

 降伏した部隊の消息は戦後、しばらく途絶えた。27年後、週刊誌「サンデー毎日」の1972年4月2日号(3月20日発刊)が「久米島同胞“大量処刑”はこうして行われた」と報じ、「K元兵曹長」と匿名にしたインタビューも掲載した。琉球新報は3月25日付朝刊で「徳島にいた『久米島虐殺』の指揮者」と伝え、指揮官名を「平然と語る鹿山元隊長」として実名で書いた。

 鹿山元兵曹長は、その後出演したテレビのワイドショーで久米島の遺族と「対決」したが、「戦争中のことで仕方なかった」という姿勢に終始した。沖縄では「山に隠れて、何が日本軍の誇りか」「殺してやりたい」という視聴者の厳しい声が多かった。しかし、本土では7割以上が「沖縄だけが戦争の犠牲者ではない」「いまさら古傷を暴いて何になる」という冷たい反応だった。

 一連の虐殺から75年、この悪夢が報道でよみがえって48年。口を閉ざした住民もいて、今に至るも全容が解明されたとは言いがたい。だが、米軍という強い相手からは逃げまくり、弱い住民を「スパイ」という名で陥れる。そのどこに、軍の「大義」はあったのか。ましてや、「6・23」を境に組織的統制は失われ、「8・15」で国として降伏の受諾が明らかになった後のことである。

 時が刻まれても、このおぞましい記憶が失われることはないであろう。軍隊が住民を守らなかったという動かしがたい事実は、決して消えることがないのだ。

(元毎日新聞大阪本社編集局長、那覇市在住)