1995年に起きた米軍人による少女乱暴事件を受け、党派を超えて8万5千人(主催者発表)が結集した県民総決起大会から21日で25年。県民は沖縄戦から続く基地の負担に怒りの声を上げ、米軍基地の整理縮小や日米地位協定の見直し、米軍の綱紀粛正などを求めた。しかし、過重な基地負担は今なお続き、米軍関係の事件事故も起こり続けている。基地問題を根源とする不平等は解消されないままだ。1996年、日米は普天間飛行場全面返還に合意したが、まだ実現していない。当時の県議会議長で大会の実行委員長を務めた元衆院議員の嘉数知賢氏(79)に、大会開催の経緯や今も変わらない基地負担について聞いた。
(聞き手 座波幸代)
―大会から25年がたつ。
「25年がたったからと記念すべきことでも何でもない。被害者と家族は一生懸命忘れようとしてきた25年だったと思う。周りが悪夢を掘り起こしてはいけない」
―当時は自民選出の県議会議長だった。実行委員長を務めた時の思いは。
「大会はウチナーンチュが党派やイデオロギー、主義主張を超えて自発的に行動した戦後唯一の大会だったと思う。こんな事件を二度と起こしてはいけない、という思いだった。革新や労組だけでやるものではないし、東京から政党の代表らがあいさつさせてくれとも言われたが全て断った。純粋にウチナーンチュだけでやる大会。その結果として日米両政府にあれだけのインパクトを与えた」
―訪米して要請もした。
「米国も深刻に考えたと思う。最初、海兵隊の司令官は『皆さんの陳情はよく分かった』と話した。私は通訳を通して『陳情ではない、抗議だ。沖縄という小さな県の住民代表として世界のリーダーの米国に抗議に来た。恥ずかしくないのか』と伝えると、司令官は顔色を変えて机をたたいたが、その後『改めて教育をしっかりやる』と話した」
―現状をどう見るか。
「残念ながらあの時から何も変わっていない。日米地位協定は運用改善は行われたが、われわれが求めた改定ではない。米軍普天間飛行場も動いていない。大会で基地撤去を求めたら、どうなっていただろうかと考える時もある」