27日に亡くなった作家の大城立裕さんと交流のあった関係者は、沖縄を深く見つめ、挑戦し続けた大城さんを振り返り「パイオニアであり続けた」「沖縄の昔から今までを見通していた」と惜しんだ。
50年近く付き合いがあり、戯曲版「カクテル・パーティー」の英語訳などを担当した、山里勝己前名桜大学長は「20世紀から21世紀にかけての沖縄文化をけん引した」とたたえる。「沖縄初の芥川賞もそうだが、その後も新作組踊に挑戦するなど、いつの時代でも沖縄文学の可能性を切り開いた」と評価した。2月に名桜大が主催したシンポジウムで大城さんは「私の遺言だ」として、しまくとぅばの丁寧語を作ることを提案した。山里さんは「最後まで沖縄の未来について考える姿に心を打たれた」と思いをはせた。
高良倉吉琉球大名誉教授は大城さんが沖縄史料編集所所長だった頃の部下で、大城さんは結婚の媒酌人でもある。大城さんの「沖縄が抱えるさまざまな問題を考える時、沖縄の文化をどう見つめられるかが大事なんじゃないか」という言葉が印象深いといい「その教えを大事にしている。大切なことをぽろっと言う人だった」としのんだ。
大城さんの自宅をよく訪れて、ゆんたくしたというむぬかちゃー(ライター)の知念ウシさんは「全国紙の対談で、哲学者の高橋哲哉さんに『基地を持って帰って』と発言して物議を醸した時、大城さんは『でぃかちゃん(でかした)』とすぐに電話をくれた」と振り返る。「沖縄の昔から今までを見通す大城さんは、今どういうことを考えているかを話し合いたい人だった」と惜しんだ。
大城さんは2001年、沖縄関係の文学者で初めて全作品を収録した個人全集を出版した。同全集の編集委員を務めた群馬県在住の文芸評論家、黒古一夫さんは「沖縄の近代文学のレベルを高めた第一人者だ。沖縄差別の存在を見据え、作品にも反映した。最近の言動から沖縄の基地問題を正面から捉えた作品に取り組むと期待していただけに残念だ」と声を落とした。