「心と芸、戦争でなくならず」 琉舞・重文保持者の志田房子さん 芸歴80年を語る(上)


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 【東京】芸歴80周年を迎えた国指定重要無形文化財「琉球舞踊」保持者(総合認定)の琉球舞踊重踊流初代宗家・志田房子がこのほど、琉球新報のインタビューに応じた。「舞ひと筋」の人生を振り返り、戦争直後の混乱期に琉舞を楽しんでくれた県民の拍手が「私にとって今日までの宝」だと述べ、平和への思いを語った。(聞き手 知念征尚)

インタビューに答える琉球舞踊重踊流の志田房子初代宗家=11日、東京都内

■「料理中も菜箸を道具に」舞いひと筋

 ―芸道80年を振り返って。

 「戦前、戦中、戦後、ずっと踊ってきた。私は弟子たちと夜中の12時、1時になってもお稽古をしている。お稽古が終わった後も、こうした方がよかったね、といった踊りの話を2時くらいまで娘の真木としている。そういうことを考えていたら、もう数時間後には次のお稽古がある。それを重ねていくうちに、今日の80年になったという印象だ。私の中では節目という感じがしない」

 「舞い、ひと筋で生きてきた。料理中も菜箸を踊りの道具にして踊るし、紙を扇に見立てて構える。人間には五臓があるが、私には舞踊という臓器がどこかにあって。心臓がずっと動いているように、私の舞踊という臓器もずっと動いていないと(という気持ちだ)」

■「ベニヤ舞台の拍手、今日の宝に」

 ―沖縄戦で玉城盛重師を亡くした。琉球舞踊自体も存亡の危機に見舞われた。

 「何もない時代から踊り継ぐというのは、子どもながらに大変だった。だが、3歳からお稽古を通じて無形の沖縄の文化を先生方が私の体に残してくださったことにはすごく感謝している。戦争は有形のものは力でもって全てなくしたが、人の体に残る心や芸能はなくならなかった。戦争が終わると、3、4歳の時に教えてもらったことが少しずつ芽生え、80年までずっと続けてこられた」

 「戦争直後、娯楽がない時代は、ドラム缶の上にベニヤ板を敷いたら(即席の)舞台になった。それがちょうどいい高さになる。区長さんがみんなを元気づけようと言って(イベントを)やるが、私以外に踊り手がいない。踊ると、かわいい、かわいいと言って、すごい拍手をもらった。それが子どもながらにとてもうれしかった。県民、ご近所のおじいちゃんおばあちゃんたちに褒めて育てられた。私にとっては今日までの宝だ」

■「平和、絶やすまいと踊り続けた」

 ―「鎮魂(しずたま)の詞(うた)」など平和への思いを込めた創作舞踊も手掛けている。

 「平和を守りましょうと言うことは、誰にでもできることだ。私ができることは、いい踊りをして、みんなの心に訴えることだ。今も世界のどこかで戦争が起きている。そういう国の子どもたちは、自分の国の文化も知らないまま、幼くして命を落とすこともある。そういう子どもがいてはいけない。日本は踊りが楽しく見られるし、音楽も聴ける。世の中のお母さんたちには、こういうことができるのは平和だからだよと、子どもに教えてほしい。一人一人がそれぞれの場所で、自分が持てる力の少しでもいいから平和へ気持ちを寄せていけば、世界は平和になると思う」

 「それをなぜ私が一生懸命やるかというと、沖縄の生まれで、戦争を体験したからだ。戦災に遭った中で、この年になるまで絶やすまい絶やすまいと踊り続けたのが今日ですから」

■玉城盛重師への思い

 ―玉城盛重師をはじめ、多くの先生に師事した。心に残ることは。

 「盛重先生から私は『ふーこ』と呼ばれ、厳しくたたかれた。片腕は動くが、もう片腕は動かさず構え続ける振り付けがある。人間の体は動かしているとだるさは分からないが、構えている方はつらくて腕が下がったりする。すると先生は『ふーこはおりこうよ。手がぬるわっさんど(悪いんだよ)』と言って扇で手をたたく。とても厳しい先生だった。でも盛重先生に叱られながらお稽古してもらったことで、戦後、どの先生の所にいっても『ふーこ上手やっさー』と褒めてもらえた」

 「先生方が亡くなった後は、いつもお稽古に連れて行ってくれた母がたしなめてくれた。母はお稽古で先生方が私を指導されているのを見て覚えている。その母が26年前に亡くなった。それからは、自分が教わった記憶が自分の師匠だ。先生方の性格やお人柄が、踊りを踊る時にふっと包んでくれる」

【インタビュー後編】