防疫儀礼「カンカー」と鉄器の関係は? 琉球王国成立の舞台裏<沖縄と流行病5>


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 ほとんどの民俗文化は、その伝承だけをいくら調べても、発祥や変遷の年代はわからない。

 例えば、村の最高齢100歳の方が95年前の5歳のときには行われていたという今も残る村祭りがあったとしても、それが96年前にあったことを、文献や遺物に頼らず証明する術はない。

 多くの民俗文化が、栄枯盛衰を繰り返し、今に至っており、何百年もその地で不変であるはずがない。

 ただ、偶然とは一蹴できないバリエーションや特性が分析結果として浮かび上がってきた場合、そこに解釈を付与する必要があると考え、前回、可能性の一つを提示した。

 つまり、シマクサラシ儀礼の一名称のカンカー系に関する唯一無二の特性は、今から約600年前の14~15世紀頃(琉球王国成立期)、カンカーと呼ばれる動物を使う防疫儀礼が、鉄器とともに沖縄に流入してきた痕跡と考えた。

鉄が無いと困る事

浦添市指定の史跡となっている牧港のティランガマ。牧港に残る鉄器流入の痕跡

 沖縄に鉄器が流入してきたとされる14世紀頃、人々にとっての鉄器への羨望(せんぼう)がうかがえる史料がある。

 察度による初めての中国との交易から4年後(1377年)、中国から派遣された役人の報告に、「沖縄の人々は交易品として、高級な織物より磁器や鉄釜を喜ぶ」とある。

 それから約160年後の1534年、中国から琉球への冊封使による次の記録がある。

 「沖縄の人々は動物を刀で殺さず溺死させる」

 「人々が好むのは古画や銅器ではなく、鉄器と綿布。庶民の炊事には、法螺貝(ほらがい)の殻が多用」

 「鉄製品での煮炊きや耕作をする者は、王府の許可が必要で、破れば罪」

 14~16世紀、沖縄の人々にとって鉄器は貴重で、その入手と使用、さらに豚や山羊以上の動物の畜殺が困難な時代であったことを物語っている。

 ちなみに、約500年前に使っていた法螺貝の食器は、約70年前まで沖縄の比較的広い地域でヤカン代わりに使われていた。鉄器が沖縄全域の一般家庭に普及したのは、そう遠い話ではない。

 沖縄の人々が初めて鉄器を手に入れ、とても便利になったのは何か。それは農具だけであっただろうか。

 例えば、各家庭に包丁がなかった時代、私たちは何をどう使い、豚や牛といった動物をつぶし、解体していたのだろうか。石や木を鋭利にした道具で、不自由なく事足りたのか。

 伊波普猷は、先の動物を溺死させる方法は、畜殺法が発明されていなかったためと考えたが、そもそも鉄器が無かった時の畜殺法であった可能性がある。

 数は少なく真偽不明だが、古く牛豚は海で溺死させた、または崖から突き落として畜殺したという伝承がある。鉄器を使わずに大型動物を仕留める場合、私たちも同じ方法をとるのではないか。

鉄・動物・疫病の交差点

 鉄器流入のインパクトが、農耕や祖先祭祀ではなく、なぜ、よりにもよってシマクサラシ儀礼の名称に付着したのか。

 それは鉄器とカンカーと呼ばれる防災儀礼が、同時期に流入してきたためと考えられる。後に、牧港や佐敷の人々だけが、史料や伝説に基づき儀礼名を創作したとは考えづらい。

 そして、農具以上に、動物の畜殺・解体を容易とする道具として受け入れられたためであろう。動物の他、人命も奪え得る上質な武器にもなったからこそ、察度や尚巴志は戦乱の世を制し、琉球王国を成立させることができたと考える。

鉄の来た町

 牧港と佐敷に鉄器流入の痕跡が生まれた理由。まず、当時、両地域には周囲と異なる文化圏があり、近辺に早急に伝播(でんぱ)しなかったためと考える。浦添間切(現宜野湾を含む)の中央に位置する牧港に流入した文化が、南には広がっていない。つまり、浦添間切の成立(年代不詳)以前、牧港以北の現宜野湾辺りに現浦添とは異なる文化圏が存在し、その人々が鉄器と儀礼を受容し、察度を支持したことを示唆している。他分野からの検証が必要となるが、佐敷も同様で南部の中で異質な文化が存在した時代であったと考える。

 そして両地が、沖縄の歴史で初めて、大規模な交易によって、長期間、大量の鉄器が流入してきた場所であったことも一因であろう。

残った理由

 痕跡が残ったのは、(1)個人や家庭の習俗に比べ変わりにくい村レベルの儀礼であったため、(2)その中でもマイナーであったため―という理由が考えられる。

 便利な道具を手に入れたとしても、その語源やルーツに強い関心を示し、後世に伝えたであろうか。

 例えば現代、人々の生活を大きく変化させた某通販サイトがあるが、その名の語源や創始者を多くの人が知らない。古の人々も同様、問題は道具の便利さで、ルーツではなかったのではないか。

 カンカニーという原初名称は、初めから牧港だけにあって、他へは略されて伝わったと考えられる(カンカニー→カンカー)。

 琉球王国の成立期、人々は動物の畜殺・解体のほか、疫病にも苦心していた。それを開放する道具と儀礼が同時期に流入し、人々の生活だけではなく政権も一変させる。

 沖縄の人々が苦悩の時代に受けた大きな衝撃が、一民俗文化の名称に付着した。その儀礼は無名が故、人々の心象と記憶が失われた後も、奇跡的に古体のまま残り続けたと考えられる。

 鉄と儀礼を持ち込んだのは誰か、為朝伝説との関係等については紙数の都合上、機会を改めたい。

(宮平盛晃、沖縄文化協会会員)