手足の末端まで真っすぐに伸びた空中姿勢、鍛え上げた上半身と腕で手首を曲げることなくぴたりと止めるつり輪の十字懸垂は代名詞ともなった。身上とする「美しい体操」の技が一つ一つ決まるたび、世界中の人々が魅了されていく。1984年8月の第23回五輪ロサンゼルス大会。両親が沖縄出身の具志堅幸司=当時(27)=が個人総合で日本勢3大会ぶりの優勝を果たし、“体操ニッポン”の復活を象徴する存在になった。沖縄の人々は歓喜に沸いた。
目の前で日章旗がするすると上っていく。選手生命を脅かす2度の大けが、代表に内定しながら日本がボイコットした80年の第22回モスクワ大会の悔しさを乗り越え、たどり着いた境地。光るものを目にたたえ表彰台の真ん中に立ち尽くした。「言葉で表現できない感情」。あふれ出る涙を拭おうともせず、ただただ晴れやかな表情だった。
64歳の今、具志堅は体育.スポーツの発展に寄与する人材育成を建学の精神とする日本体育大学の学長を務める。来夏に東京五輪が迫り、学府のトップとして多忙を極める中、11月初旬に同校世田谷キャンパスで琉球新報のインタビューに応じた。
“リトル沖縄”と称される大阪市大正区で生まれ育ち、「沖縄の文化の中で育った」と自負する。大好物に挙げるのは沖縄そば。現役時代から度々訪れる両親の故郷は「落ち着く場所」だと言う。東京五輪を目指す県勢アスリートへ「夢は諦めずに探求すれば、それが道になりますから」と、穏やかな語り口で熱いエールを送った。
高3で個人、団体全国制覇
具志堅幸司が生まれ育った大正区は大阪湾に近い大阪市西部に位置する。沖縄と結ぶ定期航路があったため、約100年前から多くの県民が仕事を求めて移り住んだ。今も沖縄にルーツを持つ人が約4分の1を占めるとされる。名護出身の具志堅の父.古清、石川出身の母.つる子は戦時中を徳島県で過ごし、戦後に大正区へ移住したという。1956年11月12日、4人きょうだいの末っ子として生まれた具志堅も「沖縄会館では琉球舞踊が踊られていて、沖縄そばや砂糖天ぷらも小さい頃からよく食べていた」と記憶をたどる。
68年に興南高が夏の甲子園で沖縄初の4強入りを果たした「興南旋風」の際は連日、沖縄関係者総出でバスに乗り、球場で声援を送った。「初めて沖縄が全国に通用したようで、誇らしい気持ちだった。大阪と沖縄のチームが対戦しても沖縄を応援しちゃう。それは今でも変わらない」と無意識にあふれる“沖縄愛”を語る。
■加藤沢男への憧れ
幼少期は「じっとしていることがなかった」というほど活発だった。遊んでいて1週間に2度骨折することも。野球やサッカーにも親しんだ。
小学6年の68年10月、運命的な出会いが訪れる。テレビで流れていたのは、第19回五輪メキシコシティー大会の体操。1人の男子選手に目を奪われた。続くミュンヘンで2大会連続で個人総合優勝を成し、76年モントリオールまでの日本団体5連覇に貢献した加藤沢男だ。白いタイツが描く軌跡がことごとく美しい。「手を挙げる、顔を挙げる、着地のポーズ、技のさばき。一つ一つの動きが芸術的だった」。憧れと共に、具志堅少年の心に決意が宿った。「加藤沢男になりたい。体操をやるんだ」
大正中央中で体操部に入った。美術を担当としていた顧問の先生から授けられた助言は「体操は美しくなければならない」。加藤の体操に魅了されていた具志堅は強く共感し、技磨きに没頭した。練習は週3日ほどだったが、休みの日は「うまい人と練習することが一番の勉強」と、近所の高校や大学へと出稽古する日々。成果が実り、3年時に近畿大会で優勝した。高校は練習に参加させてもらっていた中の一つである強豪.清風に進学した。
■興南と熱戦
「足が開いてるぞ」「つま先が伸びてない」。清風の体育館に、多くのオリンピアンを育てた名将山口彦則監督の厳しい声が飛ぶ。細部にまでこだわる指導の下、「美しい体操」に磨きを掛けていった。高校2年時の全国総体個人総合で上位に入り、高校3年となった74年の福岡総体で狙うはいずれも同校初の個人、団体の優勝だった。
最大のライバルは「全国トップレベルがそろっていた」と今も記憶に残る沖縄の興南だった。慶田盛定、山根清和、前里勇は個人総合でも上位を狙える選手で、知念義雄監督(県体操協会会長)も同じく初の団体制覇を狙っていた。大会第3日の8月3日、初日の規定演技が幕を開けた。
予想通り、2校が先頭を走る。初日を終え、清風が興南に0.25差の僅差でトップに立った。「初日は1点差以内の2位」を目標にしていた興南.知念監督は狙い通りの結果に、ミーティングで「明日はいつも通りいくぞ」とげきを飛ばし、解散した。しかしその後、駆け寄ってきた審判長の一言に動揺させられる。「先生、清風選手の校名のマークが外れていて、0.3の減点がありました」。一転、興南が0.05差でトップに。興南は最終2日目の自由演技で具志堅の後に演技することになり、知念監督は「それだとどうしてもうちの点が抑えられる。厳しいと感じた」という。
同じ知らせを聞いた、一方の清風。具志堅は減点された2年生に笑顔で声を掛けた。「ありがとうな。追い掛ける方が気持ちが楽だ。思い切りいけるぞ」。順位の入れ替えとはそれぞれ正反対の受け止め方だった。結果、1種目平均9.5以上の圧倒的強さで個人総合を制した具志堅率いる清風が2.30差で2位興南を抑え、初の団体優勝を達成。個人総合の清風で具志堅の次に得点が高い選手は16位。興南は山根5位、慶田盛6位、前里8位と3人が入賞する健闘ぶり。まさに「具志堅1人に負けた」(知念監督)というべき結末だった。
「目標としていた全国制覇が果たせた。なんとも言えない気持ちだった」と振り返る具志堅。大学は名門日体大へ。栄光と絶望が待ち受ける次のステップへと歩みを進める。
(長嶺真輝)
(敬称略)