【詳報】「戦後100年」どう記憶をつなげるか? 「終わりなき〈いくさ〉~沖縄戦を心に刻む」トークイベント


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 「終わりなき〈いくさ〉を考える」と題したトークイベントが11月14日、那覇市のジュンク堂書店那覇店で開かれた。登壇者は、『終わりなき〈いくさ〉~沖縄戦を心に刻む』の著者、琉球新報客員編集委員で元・毎日新聞大阪本社編集局長の藤原健さん、その書評を執筆した佐喜眞美術館学芸員の上間かな恵さん、琉球新報記者で、「戦後75年」の取材チームで沖縄戦の記憶継承企画にかかわった琉球新報社会部記者の阪口彩子さんの3人。「沖縄戦はどのような戦争であったのか」「沖縄戦の記憶を未来にどうつなげていくか」の二つをテーマに話し合った。会場は満席で、立ち見も出た。聴衆として参加した「第32軍司令部の地下壕を保存・公開を求める会」の垣花豊順・副会長、戦没者遺骨の収集を続ける「ガマフヤー」の具志堅隆松さんからも関連する意見をいただいた(進行は藤原さん)。

 

トークイベントで話をする(右から)藤原健琉球新報客員編集委員、佐喜眞美術館学芸員の上間かな恵さん、琉球新報社会部の阪口彩子記者=2020年11月14日、ジュンク堂那覇店

 

■逃げ場ない「至近距離の殺し合い」

 藤原:戦闘行為としての沖縄戦は1945年3月末から9月(7日、南西諸島の日本軍が米軍に降伏調印)にかけてですが、沖縄本島の南部では、今も戦没者の遺骨発掘が続いています。遺骨が埋まっている土砂を辺野古の新基地建設の埋め立て用に利用する計画があることを考えると、戦後75年が経っても、沖縄では〈いくさ〉の決着はついていない、〈いくさ〉は終わっていない、ことを実感させられます。その感覚をベースに、今日は3人で話します。一つ目は沖縄戦とはどういう戦争であったのか、もう一つは沖縄戦の記憶を未来へどうつなげていくか――で、これを大きな柱として考えていきます。

 私を含め登壇者は3人とも沖縄戦の体験者ではありませんが、それぞれが沖縄戦につながる人、経験を大切にして沖縄戦に当事者として向き合おうとしています。そのつながりを自己紹介で関連する記事や写真を皆さんにお示ししながら語っていき、テーマに自分を重ねていくことにます。

 まず、上間さん。皆さんにご覧いただいているのは、一人芝居で知られる北島角子さんの写真と記事。実は、北島さんは上間さんの伯母さんにあたります。すでに亡くなりましたが、沖縄戦に対する思い、とりわけ子どもたちにメッセージを伝えた北島さんはどんな存在だったか、そのあたりから話を始めてください。

 上間:私の勤める佐喜眞美術館には「原爆の図」で知られる丸木位里・丸木俊夫妻の最晩年の連作「沖縄戦の図」(全14部)が常設展示されています。いま紹介にありました伯母の北島は、メーンの「沖縄戦の図」の前で「いのち」をテーマにしたひとり芝居とフォーシスターズさんの歌の公演会を20回行いました。沖縄芝居というと「敬老の日」などが定番ですが佐喜眞美術館ではあえて「こどもの日」に毎年開催しました。次の時代をつくるこどもたちにウチナーグチでいのちのことを伝えたい、という思いからです。そんな北島も戦争当時は南洋にいたので沖縄戦の体験はありませんが、「人類館」や初めてのひとり芝居「島口説」で沖縄戦を学んだと話していました。

 書評のお話をいただいたときはその責任の大きさに緊張しましたが、何度も読んで感じたのは、藤原さんが沖縄をくまなく歩き、沖縄の方から学ぶのだという姿勢が貫かれていることと、あの戦争では新聞人も戦争に加担した、もう二度と戦争に与しないという確固たる決意が貫かれているということでした。記者としてのまなざしは厳しく深いですが、文体はわかりやすく書かれているのでぜひ手に取ってほしいと思います。

 この本のカットにある言葉は「沖縄戦の図」に丸木夫妻が書き込んだものです。「恥ずかしめを受けぬ前に死ね 手りゅうだんを下さい 鎌で鍬でカミソリでやれ 親は子を夫は妻を 若ものはとしよりを エメラルドの海は紅に 集団自決とは手を下さない虐殺である」。

佐喜眞美術館で公開されている「沖縄戦の図」(「残波大獅子」)と佐喜眞道夫館長=2019年9月、宜野湾市の佐喜眞美術館

 丸木夫妻は「私たち本土の人間は地上戦を知らない。空襲や原爆の下では爆弾しか見えず、それを落とす人間は見えない。本当の戦争を描くには、それは地上戦を体験した沖縄戦を描かなければならない」という想いで精魂を込めて「沖縄戦の図」を描きました。米粒みたいな小さな島にふたつの国の軍隊が押し寄せ、空も海も陸も覆い尽くされました。逃げ場のまったくない島の戦争は、すべてが至近距離です。互いが互いの顔を見ながら叫び声を聞きながら殺し、殺されていく。そのような地獄が3、4カ月続き、戦争が終わってもその後27年間米軍の統治下に置かれる。沖縄から学ばなければ本当の戦争を描いたことにはならない、と。お二人は「集団自決」ということばにも疑問を持ち、あの言葉を書き残していますが、本当に「集団強制死」だと思います。天皇制、皇民化教育の下で繰り広げられたアジア・太平洋戦争のなかで最期には死の選択しか与えられなかった沖縄の人たちを描き、自分たちも戦争を止められず加担したのだという「加害」の立場も考えた。その厳しい言葉をカットに使用したというところに、藤原さんの深い決意を感じました。私もこの本でいろいろと気づかされました。

 藤原:上間さんの評価もあって、この種の本としてはよく出ています。このジュンク堂那覇支店で2週間連続売り上げ3位になったりもしました。

 ところで、皆さん、お気づきでしょう。このステージの横にオブジェが展示してあります。これは、は本と同じタイトルの「終わりなき〈いくさ〉」という作品で、平和ガイドの仲村真さんが制作し、今日のために持ち込んでいただきました。

会場に展示されたオブジェ「終わりなき〈いくさ〉」(左)。発言しているのは、第32軍壕の保存・公開運動を推進している垣花豊順さん=坂本菜津子さん撮影・提供

 普天間飛行場に隣接する小学校に落下した窓枠と、宮森小学校に墜落したジェット戦闘機、沖縄国際大学に落ちたヘリコプターなどがイメージしてあり、「終わりなき〈いくさ〉」の影が今も見えるということです。くしくもジェット機とヘリコプター。空襲というのは殺す側は、殺される人を見なくて済みます。沖縄戦は相手が見える殺戮戦。実は日本軍が闘った戦争の主なものはすべて地上戦。相手の見えない空襲と、殺す側、殺される側が互いの顔を見た地上戦。上間さんに指摘していただいたように、この質の違いを丸木夫妻はキャンバスに残しています。

 もう一人の登壇者、阪口記者は、こうした沖縄戦を、住民の視点で見ています。

 高江で反対運動が盛んなときに、北部報道部に配属でした。取材中、機動隊に妨害されたことがあり、そのときの様子をドキュメントとしてまとめた琉球新報の記事を皆さんにご覧いただいています。阪口記者は、25年後の「戦後100年」も現役の記者として取材している年齢です。土・日曜日に戦跡めぐりをして沖縄戦を実感し、基地反対運動とのつながりを考えようとしています。大阪の岸和田出身の阪口記者がなぜ沖縄で、沖縄戦の取材しているのか、聞いてみましょう。

■語った全てを記録する

 阪口:なぜ、沖縄に来たかというと、大阪にいて沖縄のことを何も知らなかったからです。中学、高校の頃、大阪の学校の授業で「沖縄戦」は取り上げられなかったのです。広島・長崎のことは詳しくやりましたが、沖縄戦のことを知らずに過ごしました。大学で沖縄出身の友達がいて、沖縄で忘れてはいけない日が4月28日、5月15日、6月23日であると聞いたとき、自分は何も知らなかった。すごく恥ずかしく感じました。それがきっかけで沖縄へ行っていろいろ知りたい、学びたいと思い、6月23日の慰霊の日に沖縄に来ました。摩文仁の平和祈念資料館で、琉球新報が戦後60年の節目に展開した「沖縄戦新聞」を読んで、こういうことに取り組んでいる新聞社はすごいなあ、と。こういう新聞社に入って勉強したいと思ったのがきっかけでした。

戦後60年の2005年、琉球新報がつくった「沖縄戦新聞」。当時の状況を現代の視点から編集した

 教えられたのは、新聞記者という仕事は、普通に生きる人の暮らしを守るために仕事をするということ。政治家や肩書きのある「偉い人」ではなく、普通の人々を幸せにするために、暮らしを守るために、記事を書かなければならない。それが私の場合は「沖縄戦」を通じて考え、書くことなんだ、と強く思いました。

 白梅学徒隊の中山きくさんと初めてあったときの話を今も忘れないでいます。学徒隊は八重瀬岳の野戦病院に配属され、解散命令が出た後に南部へ逃げた。そのときに側にいた日本軍が自決の準備をしていた。きくさんは、一緒に行動していてお友達の嶺井千代さんに「どうする?私たちも自決する?」と聞くと、千代さんは「いや!自決だけは絶対にいや」と言い、その場から離れた。きくさんたちは、日本軍が集団で自決するのを目の当たりにした。日本軍の言うとおりにしていたら千代さんもきくさんも、今、生きていない――ということでした。

 今年は、戦後75年でした。取材はコロナがあったため難しく、高齢者に感染したら重症化しやすいため、直接会って話を聞きたいのに、会えないことが多かった。このままだとできることが限られ、戦後75年の報道は何ができるか頭を悩ませました。ただ、今聞いておかないと沖縄戦の記憶を残せないと考え、琉球新報で体験者らを招いて感染対策に努めながら座談会を実施しました。

 そのとき、意識したのがただ聞くだけではなく、聞いて書くだけじゃない、全部録音する。あと5年後の「戦後80年」では、体験者はますます減っていく。「戦後100年」では必ずいなくなる。そのときに活用できるのは、今、その方々が語ってくれる言葉です。私は体験者が話した録音をずっと残しています。戦争体験者が亡くなっても、録音した言葉は必ず残ります。オーラルヒストリーを重要視している。「戦後80年」、「戦後100年」の基礎資料であり、財産になると考えています。

北爆の開始を報じる1965年2月8日の琉球新報

■伝える側に「進化」必要

 藤原:私自身のことを語ります。ご覧いただいているのは、今年で没後50年になるカメラマンの沢田教一さんが「安全への逃避行」としてベトナムで撮影した写真です。撮影されたのは1965年。私は岡山で高校生になったばかりでしたが、この写真を新聞紙面でリアルタイムで目にしたときから、確実に自分の人生の中で沖縄を意識するようになりました。この年、佐藤栄作首相が沖縄で「沖縄が本土に復帰しない限り戦争は終わらない」と演説しました。この佐藤首相発言を契機に沖縄のことを新聞で読むようになりました。ベトナム戦争と沖縄との関係の報道が多く、北ベトナム(当時)への空襲である北爆が始まった年でもありました。「黒い怪鳥」と呼ばれた超大型の戦略爆撃機、B52が嘉手納から発進しています。沖縄が新たなアメリカの戦争に組み込まれたのです。

 高校生の私は、何か憑かれたような想いで、写真に写った人たちに会いたいと考えました。新聞記者になってベトナム取材が実現したとき、1989年に沢田さんが撮影した子ども――そのときは大人になっていますが――を探し当てました。特ダネとして書いた記事の見出しは「逃げ惑う時代、終わりにしたい」。辛い目にあっていたのは、一般住民。沖縄戦を体験した人々が感じていることと同じではないかと思いました。

 私はベトナム戦争を通して、沖縄のことを知るようになりました。ただ、そのきっかけとなった1965年当時の沖縄の人びとの暮らしがどうなっているのか、よく分りませんでした。

 もうひとつの写真を示します。これはその1965年、写真家の嬉野京子さんが沖縄本島の宜野座で撮影しました。幼児が米軍車輌に轢殺(れきさつ)され、路上に放置されています。米兵が見下ろし、周りの人は手が出せません。これが当時の沖縄の断面を象徴しているように思えます。

 沖縄戦が戦後の沖縄のさまざまな問題に影を落とし、根底にあると確信し、毎日新聞を退社したあと、4年前に沖縄に移り住んで、沖縄戦の戦跡めぐりと戦後沖縄のジャーナリズムの勉強を始めました。私はウチナーンチュではありませんが、沖縄戦の記憶をどう継承するかを考えたとき、ヤマトンチュウである自分の内面を見つめ直して沖縄戦や沖縄に向き合うことが欠かせないと感じ、その感覚を本にまとめました。

幼児が犠牲になった写真の前で「軍隊の本質は変わらない」と強調する嬉野京子さん=2016年5月、北谷町砂辺の嘉手納基地第1ゲート前

 今も阪口さんからあったとおり、「戦後100年」には確実に体験者がいません。記録を心に刻む記憶とし、継承し、伝えていくのは、新聞記者や、上間さんのような継承にかかわっている人たちであるのでしょう。だからこそ、伝える側の質的にもっと進化したものになり得る自覚、もっと当事者意識を持つことが重要ではないでしょうか。つまり、われわれが自覚的にもっと踏ん張らないと「戦後100年」につながらない。それは、沖縄戦がどういう戦争であったかを、今までより以上に認識を深めて捉えることとつながっています。

 沖縄戦はどういう戦争であったか。近代思想史家などの専門家は、明治政府の琉球処分(併合)による沖縄の近代化のグロテスクな形の頂点が沖縄戦であると分析しています。近代化の過程で、沖縄の人々は自らの習慣や風習、歴史を捨てさせられ、日本人より日本人らしくしようとしながら戦争時にはスパイ扱いされました。この矛盾をはらんだ歴史の流れを見たうえで、それをどう伝えるかまで視野を広げていかないと、1945年3月~6月までの戦闘行為だけが沖縄戦だという捉え方になってしまう。そうすると、本土が沖縄に強いてきた歴史の積み重ねが沖縄戦の中に凝縮されているという本質が伝わらないし、沖縄戦の認識にもつながりません。たとえば、民間人12万人が沖縄戦で亡くなった。その説明をするために、東京大空襲は10万人、広島の原爆は14万人だったと比較してみる。「私は戦後生まれだから沖縄戦を知りません」「私は本土生まれなので沖縄戦は知りません」「沖縄だけが被害を受けたのではない」というような無知と詭弁に飲まれないためにも、沖縄戦をもっとわかりやすく伝え、アジアでの戦争との絡みもきちんと伝える工夫がこれから必要だということを、強く思います。

 上間さんにお聞きしたいのは、日本軍というのはどういうものか、佐喜眞美術館の館長さんが「沖縄戦の図」の前でよく話をされていますね。

■司馬さんを変えた「ひき殺す」軍隊

 上間:地上戦を体験し、戦後27年間米軍の統治下にあった沖縄では、「軍隊は住民を守らない」ということは実感を持って語られてきています。空襲が主だった本土ではそれはなかなか伝わっていないのでは、と思いますが、佐喜眞館長は司馬遼太郎さんの本に書かれたエピソードを引用しながら、本土決戦があったとしても沖縄戦と同じように軍隊は住民を犠牲にしただろう、いう話をよくします。司馬さんが栃木の戦車部隊に所属していたときに、もし関東に米軍が上陸したときに東京から逃げてくるおびただしい避難民で戦車は立ち往生するのではないか、という疑問を大本営からきた少尉に尋ねた場面を司馬さんは『街道をゆく6 沖縄・先島への道』にこう書いています。

 「敵の上陸に伴い、東京はじめ沿岸地方のひとびとが、…関東の山地に逃げるために北上してくるであろう。…その道路は、大八車で埋まるだろう。そこへ北方から私どもの連隊が目的地に急行すべく驀進してくれば、どうなるのか、…。そういう私の質問に対し、大本営からきた人はちょっと戸惑ったようだったが、やがて、押し殺したような小さな声で―かれは温厚な表情な人で、決してサディストではなかったように思う―轢っ殺してゆけ、といった。そのときの私の驚きとおびえと絶望感とそれに何もかもやめたくなるようなばからしさが、その後の自分自身の日常性まで変えてしまった。軍隊は住民を守るためにあるのではないか。しかし、その後、自分の考えが誤りであることに気づいた。軍隊というものは本来、つまり本質としても機能としても、自国の住民を守るものではない、ということである」

 これが軍隊の本質であり、本土決戦があれば地上戦となった本土でも沖縄戦と同じようなことは起こっていただろうと思います。

島袋淑子・ひめゆり平和祈念資料館館長(当時)。「戦争は人災」と説いてきた=2013年、糸満市のひめゆり平和祈念資料館

■住人よりも「領土」なのか

 藤原:軍の本質とは、そういうものという指摘ですね。司馬さんはこうも書いています。軍隊というのは住民の生命財産を守るためではなく、住民より高位に位置づけた、国や組織を守るもの。守るのは住民よりもまず領土だ、と。沖縄が「本土復帰」した後、「沖縄は返ってきた、次は北方領土だ」というポスターを見て、驚いた覚えがあります。つまり、本土の為政者にとっての関心は、そこに住んでいる人よりも、領土にある、ということですね。沖縄には今、140万人の人が住んでいます。沖縄戦があり、米軍基地が集中しています。そうしたことには無関心で、「地政学上」、沖縄は防衛最前線であり続けているなどという言説は、沖縄戦で遺族がどんな想いで生きてきたのかということへの想像力が欠けていると思います。大切なのは、何よりも人間であり、これを次世代へ伝えていくことが平和や民主主義の基本ではないでしょうか。戦跡をめぐり、多くの人に話を聞けば聞くほど、そういう想いが深まります。

 「戦後80年」、「戦後100年」で必要なことのひとつは、そういう意味での国の責任をしっかりと見据えることでしょう。ひめゆり平和祈念館の島袋淑子・前館長が子どもたちにいつも言ってきたのは、「戦争は自然災害ではありませんよ。人災ですよ」ということ。「人災」というのは、「責任」につながっていきます。その指摘に気づかないか、通じない人もいますが、戦争の責任を言い続けないと、再び同じ道を歩むことになりかねません。若い記者の阪口さんも感じていることなので、そのことを触れてください。

 阪口:人災の部分。戦跡めぐりで感じること、学ぶことを紹介します。海外でのことです。ポーランドへ行き、アウシュビッツの収容所跡をめぐりました。ポーランドでは悲惨な虐殺がありましたが、これを伝えるのは、必ずしも、直接の体験者でなくてもいいのです。私が行ったときは、若い大学生が案内してくれました。大学や学校のカリキュラムに授業としてあるようです。それは衝撃でした。そして、ポーランドはできているのに、なぜ日本はできていないのか、と感じました。

 負の遺産として首里城地下にある第32軍司令部壕跡を保存しようという動きが高まっています。昨年、首里城が焼失して以後、この話が本格化しました。私は毎年、首里城へ行っていて、司令部壕のことを戦争体験者から教えてもらっていました。でも7年間、この壕の記事を書くことができていませんでした。それをやってこなかった自分を反省し、炎上がきっかけとなり動きが出ているので新聞社として取り組まなければならないと思うようになりました。

 司令官だった牛島満中将の孫である貞満さんが沖縄に来た際に取材しました。そのとき、貞満さんが言っていたのは、「祖父は沖縄を犠牲にする南部撤退の決裁をした。この首里で持久戦をするという選択もあったかもしれない」ということでした。それを記事にしましたが、75年の「負の遺産」、ということを強く意識しました。

32軍壕第5抗口の前で内部の説明をする牛島貞満さん=2020年7月、那覇市の首里城公園

■第32軍と皇民化教育

 藤原:私も牛島さんの話を聞いたことがあります。牛島司令官は人格的に優しかったと証言する人はいます。しかし、貞満さんはそう言いません。阪口さんが今、話したように、「祖父が南部への撤退をやめることを決断していたら、住民を巻き込まなかったはずだ」、と。貞満さんは東京で小学校の教諭でした。祖父の責任を含めて退職後も、東京や沖縄で子どもたちに語り継いでいます。第32軍を客観的に見てみようということですね。

 第32軍のことは、沖縄戦を闘ったところだけに焦点をあてると逆に見えない部分が出てきます。第32軍の多くは、中国大陸から転戦した部隊です。中国大陸で何をしていたのか。牛島司令官自身も、南京に突入したときの連隊の責任者だった。第32軍を中国大陸との関係でとらえるも欠かせない視点です。沖縄戦は数カ月でしたが、日本は15年間も中国で戦争を続けた。それの最終局面が沖縄戦――。こう捉えることで、見えてくるものがあるはずです。これに関連して、「集団自決(強制集団死)」のあったチビチリガマのことを上間さん紹介してもらいましょう。

 上間: 第32軍の傘下にあった第62師団は、中国・華北方面で活動した中国共産党軍(紅軍)の「八路軍」に行った三光作戦にも加わった師団です。三光作戦とは、「殺し尽し、焼き尽くし、奪い尽す」という日本軍の無謀な振る舞いを中国側が呼称したもので、沖縄戦でも「軍官民共生共死」を強要していきました。皮肉なことに、純粋で優秀であればあるほど、その意図が理解できてしまうのでどんどんその教えが内面化されていきます。逆にウチナーグチしか使えなかった人がその洗脳から逃れ、生きることを選択できた人もいました。

 読谷村のチビチリガマで亡くなった方のなかに毒を注射器で打って自決した女性がいますが、彼女は大変優秀で日本軍従軍の看護師として満州に行っていた。当時の女性としては最高の出世。たまたま帰郷していたときに沖縄戦に巻き込まれ、自ら率先して自決になだれ込んだ。捕虜を日本軍がどのように扱っていたか、実際に中国で見聞きしたであろうし、優秀であればあるほど軍の精神を身体に取り込んでいたのでしょう。あの当時の皇民化教育というのは、今の私たちからは想像し難いほど徹底したもので、恐怖心で縛り、そこから別の意志、意見を持つというのは相当困難だっただろうと思うし、それは本当に恐ろしいことだと思います。

チビチリガマと「世代を結ぶ平和の像」=読谷村波平

 藤原:同じ読谷村のシヌクガマは、チビチリガマ事情が違っていました。シヌクガマは誰も亡くなっていません。中国での戦争経験のある人が、ここにはいませんでした。逆にアメリカ大陸で暮らした経験を持つ人が「米軍は民間を殺さない」と説明したこともあって、誰も自決はしなかったのです。チビチリガマとの違いは、中国戦線の体験者がいたかどうかの違い、と指摘する研究者もいます。

 敗戦後、国は軍人、軍属や準軍属にこれまで累積で60兆円以上の手厚い補償をしています。一方で、空襲被害を受けた人たちが裁判を起こしました。沖縄戦の被害を受けた一般人も裁判を起こしています。しかし、いずれも門前払いに等しい扱いです。理由は「みんな苦労した、あなたたちだけではない」がひとつ。もうひとつは当時の明治憲法に補償する法律はなかったから。軍官民、共生供死といいながら、「悠久の大義に生きよ」などと独りよがりな美意識に則った命令を出すことで死ぬ道に引きずり込まれたのです。しかし終わったら、みんなが辛かったから、と「受忍」を求める。実はそういう姿勢は米軍に対する爆音訴訟でも同じです。国の安全保障にかかわることは司法が及ばないのが現状です。

 政治が国民を戦争に巻きこんだ責任を、どう考えるべきなのか。それは、今後、戦争に巻きこまれないためにぜひとも学んでおかなければならないことでしょう。今日は、この戦争がどういう戦争であったのか、ここから何を教訓として引き継いでいくのかということを話し合ってきました。聞いていただいた皆さん方も、頷いていただいています。その共感を入り口として、これからも考え続けていきたいと思います。

 今日は、第32軍司令部地下壕の保存・公開運動を推進している垣花豊順さんに来ていただいている。ご意見とご感想をお聞かせください。

 垣花さん:本(「終わりなき〈いくさ〉」)を改めて読んでやって来た。3つほど申し上げます。

 藤原さんは本土の新聞社を退任後、沖縄で再び学生になりました。謙虚な気持ちで後世へ伝えようという意気込みで書かれたことがよく分ります。多くの人へ伝えていきたい本です。2点目。佐喜眞美術館は有名で大きな業績がありますが、これに加えて美術館が建てられた経緯に注目しておきたいと思います。美術館の場所はもともと軍用地でした。美術館を建てようとしたら政府はすぐに認めなかった。このため館長が直接、米軍と交渉することになった。この経緯をこの本で知って、「終わりなきいくさ」は必ずしも米国だけじゃない、日本政府もだと分りますね。今後は、そういう点も踏まえて記者の人たちに書いていただきたいですね。

 三つめ。首里城の本殿近くに、沖縄戦当時、沖縄師範男子部の鉄血勤皇隊が掘った留魂壕で新聞が発行されていました。記者は危険を顧みず、砲弾にさらされながら、新聞をつくりました。しかし、残念ながら、真実からはほど遠い内容の紙面だった。今の基準から言うと、嘘を書いたのです。記者の皆さん方は、心を込めて真実を伝える、それが訴える力になると思います。今日の解説して下さった方は今後も書くでしょうから、良心に恥じない真実の記事を書き続けてほしいと願います。

 藤原:戦没者の遺骨収集を続けている「ガマフヤー」の具志堅隆松さんが会場に来て下さっています。どうぞ昨今のこの動きと、「終わりなき〈いくさ〉」をどんなふうに考えておられるのか、伝えてください。

会場に来た「ガマフヤー」の具志堅隆松さん(左端)=坂本菜津子さん撮影・提供

■遺骨出る土、辺野古埋め立てに使うのは「人の道」か

 具志堅さん:まずお話しなければならないのは、防衛局が辺野古新基地の設計変更を出した内容に、埋め立てに使う石を本島南部から採取する、としています。それに危機感を抱いています。魂魄の塔から200㍍ぐらいのところ、戦没者の遺骨収集をしているところがまさに、採石場になっています。遺骨が出ているところが採石場になって立ち入り禁止なのです。

 遺骨収集については、遺骨収集に関する法律ができて国もやらないといけないというふうになっているので、厚労省へ言うべきことあるかと思っています。これまでの経緯を俯瞰的にみると辺野古の埋め立てのために、沖縄のあちこちから岩石を集める。そして、南部からも取る。これは、集める量の3~4割に上る。この計画が県に出されて結果が年を超すだろう、と。採石には、ウチナーンチュの業者もたくさん加わっています。仕事をするなというのは心苦しくて言えませんが、戦争で亡くなった人の骨を交えて埋め立てに使われるなんて、やはり理不尽なことでしょう。これは業者に言うのではなく、根本的に需要を作り出している沖縄防衛局へ言わないといけないと思います。

 防衛局は南部の土から遺骨が出ることを知っていないのではないか。これは、ある意味善意の解釈。だから、防衛局に、沖縄本島南部には、遺骨があって岩も取ろうとすると遺骨も交えて取ってしまう可能性は高い。実際に遺骨収集の経験のない人では分りません。持って初めて重さも分るのです。その状況を防衛局に認識してもらうのが先です。防衛局に現場視察の要請を出しています。「まず見て下さい」。その上で遺骨が混じる可能性が高いにもかかわらずやるんですか、断念してもらうべきではないですか、それが人の道に則ったやり方ではないですか、とお伝えしたいのです。

沖縄戦の時のものとみられる遺骨が新たに見つかった石灰岩の採掘現場で、掘り出した遺骨を黄色い布の上に集める具志堅隆松さん(左)ら=2020年11月1日、糸満市米須

 第32軍壕には、私も取り組みたいと思っています。ここには、説明板の問題があります。(那覇市)辻で働いていた女性の証言からすると、壕には、慰安婦と呼ばれた女性もいたはずです。沖縄県は説明文からこの文言を消していますが、復活させなければなりません。改めて声を上げなければならないと思っています。

 集団自決の話。その元凶は、軍隊の教科書である戦陣訓の第2章第8節「生きて虜囚の辱めを受けず」という言葉です。世界中の軍隊は敵を殺すことを訓練して教えますが、これに加えて自分を殺すことを教えたのは日本だけではないですか。私たちはこれ間違っていると言わなければなりません。沖縄戦で自殺(自決)した人は自分の意思で自殺したと捉えられるのは間違っています。国の教育や命令が背景にあったのです。

 

■語りきれぬ「沈黙」を埋めるもの

 

 藤原:具志堅さんと現場に同行したことがあります。採石現場や、辺野古の新基地建設現場を目にすると、戦争に関連するさまざまなことは、終わっていない、どう解決するのか、と強く感じています。過去のことでも、忘れていいことと、忘れてはならないことがあるでしょう。伝えなければならないことを、分りやすく。過去と現在のつながりを、難しく語るのではなく、分りやすく。戦争を起こさせないことが、政治家の仕事です。新聞記者も同じです。改めて、上間さん、阪口さんのお二人に決意とまとめをしていただきます。

 上間:垣花さんが説明して下さったように佐喜眞美術館のすぐ隣には米軍基地があり、館内には「沖縄戦の図」が展示されているという近現代史の縮図のような場所です。「沖縄戦の図」は沖縄の地でたくさんの証言者の声を聴きながら描かれました。思い当たる方もこのなかにいらっしゃるかもしれませんが、証言される方は聞き手を注意深くみています。この人はどこまで聞いてくれるのか、わかってくれているのか、と。話せる人にしか戦争の一番厳しい部分は話しません。聞く私たちが何をどう聞くのか、何を私は聞こうとしているのか、を常に問い続けながら聞かないと、絞り出すような壮絶な話を聞いても自分のなかで上滑りになってしまいます。

 でも戦争という極限の地獄から生き残った方はすべてを語ることができない。その「沈黙」の部分を私は「沖縄戦の図」の白い部分に重ねて説明しています。「沖縄戦の図」には語ってくださったことしか描かれていない。なにが沈黙のままなのか。そここそ戦争を考え、継承していくときに想像していかなければいけないところではないかと思います。

 また、体験者が安心して「語れる社会」であるのか、というのも大切な問題であると思います。沖縄は四人にひとり、もしくは三人にひとりが戦死したという地上戦を体験したということもあり他府県に比べたらまだ「語れる」社会ではないかと思いますが、それでも深い「沈黙」がある。

伊江島米軍弾薬輸送船爆発事故当時の写真(県公文書館提供)

 先週、那覇市民ギャラリーで開催されていた伊江島のLCT爆破事故(1948年8月6日、伊江島の港で米軍の爆弾を積んだ上陸用舟艇が爆発、波止場にいた住民を含む107人が爆死、100人以上の重軽傷者を出した米軍最大の事故)の展覧会があったのですが、会場内である女性がシマグチ(伊江島の島クトゥバ)で一生懸命、自分のLCT爆破事故の体験を語っていました。当時彼女は5歳で波止場から少し離れた浜辺でひとりで泳いでいたところにいきなり爆発音がして空から肉が降ってきたといいます。戦後何も食べるものもないなかでいきなりごちそうの「豚肉」が降ってきたと思い、おばあに喜んでもらおうとたくさん拾って帰ったところ、おばあは恐ろしい形相で「また戦が始またんどー!早くガマに隠れなさい!」と叫び震えていた、と。

 何が原因だったのか、その事件の真相を知ったのは大人になってからで、やっと分かった体験を友人たちに話しても「(肉が降ってくるなんて)そんなことあるか」と取り合ってくれなかったそうです。そうなるともう、その体験は話さなくなってしまいます。

 あの会場で展示されていたのは、まさに72年前に自分が体験したことばかりなので、「ここなら語れる、聞いてもらえる」とあの日に戻ったようにシマグチで何度も何度も話し出したのです。その場面を目の当たりにして、語れる社会、つかり、そのような場をたくさんつくっていくこと、そのことも沖縄戦の記憶の継承には大変重要なことなのだと思いました。

 沖縄は多種多様の県産本が毎年多く出版されますが、それは文化が豊かな証拠だと思います。その厚い文化が戦争をしない、させない力になる。そのような多様性をもった文化をもつ沖縄に希望を持っているが、体験者がいなくてもこれから戦争の何を伝えられるのか。次に生まれる世代は、映像や録音などを通して知ることはできるが体験者を目の前にして直接話を聞くことはできない。そのような時代を迎える中で戦争体験のない、それは大変幸せなことですが、私たち自身が、体験した人と同じ時代を生き、隣でその話を聞いたという証人なのだ、という矜持を持ちながら「沖縄戦の図」を通して継承のあり方を考え続けたいと思っています。

■政治家の仕事は「戦争を起こさせない」

 阪口:今日は、勉強させていただきました。証言者、体験者がいなくなっていくなかで、それを聞いた人、沖縄戦を知った人が次の世代に伝えていかなければならないと感じています。私は、仕事やプライベートでもやっていますが、どんな職業であっても、知った人が考えて行動していかないといけないというふうに思います。聞く私たちの責任、若い世代の責任です。

 また、戦争を起こさせないのが政治家の責任だと思います。しっかりした政治家が今、いないと思っています。沖縄の多くの場所に、沖縄以外の46都道府県の慰霊之碑があります。美文で殉国をたたえる碑文が多いのですが、宜野湾市にある「京都の塔」には、沖縄県民の犠牲に触れた文言も書かれています。京都出身の自民党の野中広務さんは、慰霊の塔を造る際、沖縄に来て宜野湾の嘉数に向かうときに、タクシーの運転手に言われた言葉を忘れられなかったといいます。運転手は「妹が殺された。アメリカ軍じゃない」と話したそうです。日本軍に殺されたと聞いて驚いたと本に書いてありました。深い思いにとらわれた野中さんの気持ちがあったのでしょう。そういう目線を大切にしたいと思います。

 藤原:垣花さんは宮古島出身です。宮古島の同級生に沖縄タイムスに川満信一さんがいて、同じくタイムスの新川明さんと1972年の「本土復帰」前に沖縄社会と文化の自主、自立を訴える反復帰論を展開しました。もう一人、岡本恵徳さんも反復帰論を展開しました。その人の薫陶を受けた屋嘉比収さんは岡本さんの言葉をこう理解して、まとめています。「非当事者であっても継承者にはなり得る。それは、『私だったらどうするか、私だったらどうしたか』、ということを常に念頭に置くことが当事者になる入り口だ」、と。私も戦後生まれ。沖縄戦を考えるときに、想像力の翼に乗って降りたった沖縄戦の現場で私ならどうするか、そう考えて当事者になりたいと考えています。

 土曜日の今日は、具志堅さんが「ガマフヤー」として遺骨の発掘現場にいるはずが、お休みになって来てくれました。また、仲村さん、オブジェの展示、ありがとうございます。与えられた2時間があっという間に過ぎてしまいました。聞いていただいた皆さんがつくり出してくれた空間が、大事なことは大事と言っていこうと迫ってきたように感じています。私と阪口さんは文字で伝える。上間さんは絵画という無言の証言を理解し、伝える。これからも頑張っていきます。会場からの発言があれば、伺います。

身振りを交えながら聴衆に語りかける藤原さん=坂本菜津子さん撮影・提供

<会場から(男性)>
私は平和祈念資料館へ行って、日本兵が住民に銃を向けているのを見て衝撃を受けたことがあります。安倍晋三・前首相らが「日本の歴史を自虐的に教えるのはどうか」と言っていることもあり、小学生に、刺激の強すぎるものを見せるのはどうか、と思うこともあります。

 藤原:「自虐」はよく使われますが、事実は事実として伝えるのが大前提。小学生と20歳の青年に伝えるのとでは、自ずとディテールが違ってきますが、幼いから伝えないというのは、私は違うと思います。中国で日本軍が行ったことは、よく知られていません。初年兵訓練で中国人捕虜を銃剣で突き刺し、これを初年兵教育だったという。「自虐」は恥ずかしいことはあるかもしれないが、他人や他国民に対して、恥ずかしいことを事実として行ったのであれば、それに気づいたときから、悪いと思ったときに誤ることから出発しないと。一般国民の命は考慮に値しないほど軽いという思考を根底から改めていく。これが、戦後の出発点だったと思います。憲法も日本学術会議もそうです。他の国の人の命を殺める、それが正当化される戦争を政治の力でやってしまったという反省は、忘れてはならないことだと思うのです。

 戦争は「人災」です。自然の嵐ではありません。人の力で艦砲の破片が飛んできたのです。最も大切なのは自分の命、妻、子どもたちです。それより大切なものがありますか。これが、「人災」で奪われてしまったのが戦争です。具志堅さんによると、遺骨になった人の最期は、国のくびきから解放され、「お母さん」と言って死んでいった。こうした戦争の実相を知ることは、決して「自虐」ではないと思います。
<了>