「全て沖縄戦から地続き」空襲を経験した男性、基地の不条理に声を上げる理由<第3次普天間爆音訴訟>


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「騒音は人権問題に関わる。今度こそ飛行差し止めを認めてもらいたい」と訴える渡嘉敷勇さん=17日、宜野湾市野嵩

 空から容赦なく爆弾が降り注いだ。心配し駆け付けた叔母と近くの墓地に避難して一命は取り留めた。しかし、米軍の無差別攻撃を受けた街は瞬く間に焼き払われ、日常の景色は一変した。1944年10月10日、当時6歳だった渡嘉敷勇さん(82)=宜野湾市野嵩=は、自宅近くの那覇市波之上で遊んでいる時に空襲に見舞われた。「戦争が沖縄をめちゃくちゃにした。米軍基地がある限り私たちは苦しめられる。全ては沖縄戦からの地続きだ」。渡嘉敷さんは憤る。

 空襲から間もなく祖父、母と共に大分県に疎開した。疎開先では十分な食糧がなく、田んぼで捕まえたカエルを食べることもあった。祖父と母の必死の働きで、何とか生活ができたという。

 終戦後しばらくは親戚を頼って熊本県で暮らし、46年11月に沖縄へ戻った。だが、以前のような人々の営みや街の姿はなかった。米兵が闊歩(かっぽ)し、広大な米軍基地が次々と整備されていた。渡嘉敷さんは変わりゆく故郷の姿を「不安と不満」のまなざしで見つめていた。

 学校卒業後は琉球政府職員となり、組合活動にも熱心に取り組んだ。度重なる米軍機のトラブルや、米兵による不条理な事件や事故。「なぜウチナーンチュはこんなにも虐げられないとならないのか」。沖縄の平和を勝ち取るためには基地の撤去しかないと確信した。71年には屋良朝苗主席の下、核も基地もない平和な島を掲げた「復帰措置に関する建議書」の作成にも携わった。

 自宅のある宜野湾市野嵩は、妻で元県議の喜代子さん(80)の地元で、68年に那覇から移り住んだ。目と鼻の先にある米軍普天間飛行場から、昼夜を問わず回転翼機や戦闘機が離着陸し、自宅上空を飛び交う。オスプレイの低周波音が響くと胃がムカムカするような不快感を覚え、ヘリコプターの旋回音に背中がゾクゾクする。「騒音には全く慣れない。いつ墜落や部品の落下があるか分からない恐怖もある」

 普天間爆音訴訟には2002年の第1次から、喜代子さんと共に原告に名を連ねる。前回の訴訟では、米軍機の飛行は日本の法律で制限できないとする「第三者行為論」が壁となり退けられた。「裁判を放棄している司法にはあきれて物も言えない。でも声を上げ続けないと政治も沖縄の現状も何も変わらないから」。渡嘉敷さんは拳を握りしめ、自宅上空を行くCH53大型輸送ヘリを見上げた。
 (当銘千絵)