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石川高校(2)空手家・佐久本嗣男の高校時代は<セピア色の春ー高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
佐久本嗣男氏

 世界チャンピオン7連覇を成し遂げた空手家はグラウンドを駆ける少年だった。21期の佐久本嗣男(73)である。

 スポーツ万能だった。「恩納小中学校では陸上シーズンは陸上選手。野球シーズンはキャッチャーをした。高校1年までバスケットボール。2年生から陸上に移った」と振り返る。小学校の運動会では空手に親しんだ。

 高校2年の時、生徒会長となった。グラウンド整備を求め、校長に直談判した。
 「グラウンドが雑草だらけで、足が引っかかって走れなかった。『これでは練習できない。ブルドーザーを入れてくれ』と校長先生と交渉した。『こいつは…』と思ったでしょうね」

 熱意は通った。学校はブルドーザーでグラウンドを整備した。陸上部の選手も好成績で応えた。

 体育教師を目指し、東京の日本体育大学で学んだ。その間、代々木にあった道場に通い、空手にのめり込んだ。70年、帰郷し名護高校に赴任。「一子相伝」とされた空手の流派・劉衛(りゅうえい)流の門をたたく。世界に名だたる空手家の誕生である。
 劉衛流の道場は県内に12カ所、960人が技を磨く。喜友名諒ら世界チャンピオンを生んだ。
 「私たちは粛々とやるだけ。空手の伝統を守り、深化させていくのは喜友名や子どもたちだ。ぶれない、群れない、妥協しない。自分の信念を通していく」

 世界の舞台に上ったスポーツ選手はほかにもいる。ロサンゼルス・ソウル五輪の近代五種日本代表となった泉川寛晃(62)である。

泉川寛晃氏

 31期の泉川は甲子園球児だった。75年、石川が夏の甲子園に出場した時の遊撃手である。「学校の授業よりも野球。野球を通していろんな人々と知り合った。甲子園に行ったおかげで周囲の目が変わった」と振り返る。

 卒業後、自衛隊に入隊。運動能力を評価されて自衛隊体育学校へ異動し、近代五種と出合う。しかし、課題があった。「かなづちとまでは言わないが、50メートルを泳ぐのがやっとだった。周囲にいる選手の背中を見て、追いつき追い越せと頑張った」

 メダルには届かなかったが「五輪にはなかなか行けるものではない。近代五種をやって良かった」と話す。現在は日本体育大で後進を指導する。「自分の力は未知。限界に挑み、目標を持てば可能性は出てくる」と力説する。

  甲子園を目指し、お互いを鼓舞したことを忘れない。「石川を甲子園に、糸数を甲子園に―が合言葉だった。エースの糸数がいたから石川は甲子園に行けた」
 甲子園出場チームの投手、糸数勝彦(62)は高校卒業後、プロ野球選手となった。

糸数勝彦氏

 恩納村山田で生まれ、小学校の頃から野球に打ち込んだ。石川高校に入学し、夢の甲子園を目指した。高校2年の時に肩を壊したが、チームは打撃力の向上で故障に苦しむエースを支えた。75年夏、甲子園出場が決まる。「夢がかなった。甲子園に行けたのはみんなの力だ」とうなずく。

 甲子園で2試合を投げた。ボールを握る右手中指の爪が折れていたといい、マニキュアで塗り固めて痛みをこらえて戦った。浜松商に敗れた後、マニキュアをはがした。「皮一枚だけが残っていた。限界だった。後悔はありません」

 この年のドラフト会議で大平洋クラブライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)に指名され、入団した。ユニホームを脱いだのは81年。その間、チーム名が2度変わった。故障にも悩まされた。「悪戦苦闘の5年間だった。でも、プロは行きたくても行けるところではない。いい経験だった」ときっぱり語る。

 今年、石川高校出身のタイシンガーブランドン大河の西武入団が決まった。
 「最近は沖縄出身のプロ野球選手が増え、甲子園でも好成績を残すようになった。僕らの頃と違って、今の高校生は本土へのコンプレックスはない。自分の課題を探しながら頑張ってほしい」
 糸数は後輩球児たちの活躍を今も見つめている。(文中敬称略)
 (小那覇安剛)
 (次回は22日掲載)

泉川、糸数ら石川高校ナインの甲子園出場(1975年)の歴史を伝える記念碑