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石川高校(3)「ロマンス学校」と呼ばれた時代も ふさぎ込んだ高校時代を救った俳句<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
野ざらし延男氏

 石川高校14期の俳人で元高校教師の野ざらし延男(79)=本名・山城信男=は大阪府で生まれ、戦後、石川市山城に引き揚げてきた。石川高校にはまだコンセット校舎が残っていた。「高窓はあるけど夏は暑い。汗を流しながら授業を受けた。それでも青空教室よりはいいという感じだった」と振り返る。

 中学の頃は級友を笑わせる人気者だったというが、高校に入るとふさぎ込むようになった。
 「貧乏でいつも飢えていた。人は何のために生きるのかという壁にぶつかり、自殺願望を抱えていた」と当時を振り返る。そんな頃、松尾芭蕉の「野ざらし紀行」と出合った。

 「芭蕉の『野ざらしを心に風のしむ身かな』は人生覚醒の一句となった。命を懸けて旅をし、俳句を作っていく生き方に心を打たれた」。死の淵を見つめていた少年は作句に励み、雑記帳を自作の句で埋めた。

 物の本質を問う姿勢を芭蕉から学んだ。「雨とは何か」を知るため土砂降りの中を歩いた。「土とは何か」を問い、山や畑の土を口に含んだ。「山城はおかしい、と後ろ指をさされることもあった」という。

 高校卒業後の1959年6月、宮森小ジェット機墜落事故に遭遇する。
 「畑を耕していると、道行く人が『ジェット機が落ちたぞ』と口々に言っていた。夕方、宮森小に行くと米兵と警察、住民が右往左往していた」
 崩れ落ちた教室の中に焼け残った万国旗を見つけた。「万国旗は世界の国々が手をつないで平和になろうという意味ではないか。それなのに沖縄は米軍に支配されている」。抑えきれない憤りから「万国旗が焼けずに残る偽善の島」という句が生まれた。

 高校教師となり、生徒に俳句を指導した。勤務した7校で13万余の俳句が生まれた。厳しい環境にあった生徒が更生を目指す沖縄女子学園でも俳句を教えた。現在、「天荒俳句会」を主宰する。
 「私自身が問題児だった。俳句指導を通じて問題傾向のある生徒の心に寄り添った。俳句を書かせると生徒は変わっていく」

玉城洋子氏

 歌人の玉城洋子(76)は18期。44年9月、石川で生まれた。その直後、父を戦争で失い、娘を懸命に育てる母の姿を見て育った。

 小、中学校で学びながら、石川高校の先輩たちの姿に接してきた。男生徒と女生徒の仲が良かったことが印象に残るという。「石川高校は生徒がカップルで下校していた。『ロマンス学校』と言われていたこともあった」と懐かしむ。

 石川中3年の時、宮森小の事故が起きた。「受験勉強を始めようという雰囲気の中での事故だった。きょうだいを失った級友もいた」と語る。勉強がおぼつかなくなり、学校に重苦しい空気が流れた。

 入試は合格したが、結果には満足できなかった。石川高入学後は大学受験を意識し、家にこもって勉強に励んだ。「このままでは進学できない。母子家庭なので、一発で大学に受かるよう頑張った」

 それでも体育祭など学校行事は思い出深い。楽しみだった校歌ダンスは今でも覚えている。日記に短歌を記すようになったのも高校時代からだった。

 願いがかない、琉球大学の国文科に入学した。指導教官はひめゆり学徒隊の引率教諭だった仲宗根政善。方言研究に力を注いでいた。「石川高校は『標準語励行』。母にも方言を使ってはいけないと言われていた」と玉城。不思議に思い「方言は研究対象になるのですか。面白いですか」と仲宗根に尋ねたことがある。「仲宗根先生は笑っておられました」

 卒業後、高校教師に。82年、教員の仲間たちと「紅短歌会」をつくった。管理教育に疑念を抱く教師が会に集い、それぞれの思いを歌に託した。玉城は父を奪った戦争を見つめ、復帰後も変わらぬ基地の重圧、人権侵害と向き合い、創作活動を続けてきた。
 12月に発刊した会の歌誌「くれない」222号に収めた連作「弾痕の穴」に次の歌がある。
 「糸満の鎮魂の地より土砂・岩ずり二度と殺すな死者の魂」
 (本文敬称略)
(編集委員・小那覇安剛)
 (次回は25日掲載)
(QRコードから校歌が聞けます)