【まとめ】SACO合意25年 「負担軽減」実態は機能拡大 基地は県内たらい回し


この記事を書いた人 Avatar photo 嶋野 雅明

 2021年は、在沖米軍基地11施設、約5千ヘクタールの返還などを決めた日米特別行動委員会(SACO)最終報告から25年を迎える。1995年の米兵による少女乱暴事件を受けて県民の反基地感情が爆発し、日米両政府は96年のSACO合意を発表した。沖縄の基地負担を軽くする名目で日本政府が費用を負担しているものの、基地機能を拡大し米軍の自由度を高めていることが、25年の経過でより鮮明になった。一方、米軍は中国の軍事力増強を踏まえ、新たな部隊編成など改めて軍事拠点として沖縄の機能を強めようとしている。訓練の激化による県民の被害や有事に沖縄が巻き込まれる危険性が増している。県が有識者を集めて設置した「米軍基地問題に関する万国津梁(しんりょう)会議」は、中国の脅威を理由に沖縄の基地を固定化しようとする言説に反論すべく話し合いを重ねている。(明真南斗、知念征尚)

 SACO最終報告では11施設の返還が決まったが、県内での代替施設建設や施設・機能移転が前提となっている。新たな基地被害が生まれ、基地負担のたらい回しになる。全ての返還が実現したとしても、全国の米軍専用施設の70・3%が沖縄に集中する現状は69・6%になるだけだ。
 米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設や那覇港湾施設(那覇軍港)の浦添市移設が代表的だ。新たな埋め立てを伴う大規模な代替施設建設に県内では反発が大きい。返還予定面積(約5千ヘクタール)のうち、最も広い北部訓練場の部分返還約4千ヘクタールも、ヘリパッド移設が条件だった。
 海軍病院や米軍住宅、アンテナなどは移転が進んでいる。老朽化した施設を日本政府の費用で新しくすることができ、米軍にとっては好都合と言える。

60年代に辺野古計画 軍港浦添移転も

 SACO合意に含まれている名護市辺野古の新基地建設や那覇軍港の浦添市移設は1960年代から米軍が検討していた計画と一致する。米軍基地を減らしたいという県民の願いは、沖縄が日本に復帰する前から米軍が望んでいた計画にすり替わった。実現すれば、米軍は日本政府の支出で念願を果たすことになる。
 米軍はベトナム戦争時の66年、辺野古地先を埋め立て滑走路を持つ飛行場を建設する計画を立てていたことが米軍の資料から明らかになっている。現在の新基地計画の素地になったとされる。浦添市牧港沖に軍港を造る計画もあり、那覇軍港の浦添市移設につながる。米陸軍から委託された民間の調査会社が69年にまとめた報告書などで明らかになっている。

訓練拡大 増す住民負担

 SACO最終報告は訓練に関する負担軽減も定めているが、県民の実感にはつながっていない。米軍は訓練の質と量を維持し、移転を機に拡大させた訓練もある。

 2016年に部分返還が実現した北部訓練場では代わりに集落を取り囲むようにヘリパッドを造った。民間機の自粛が求められる制限空域は返されず、広大なまま残っている。沖縄防衛局が測定した騒音の回数は、新しいヘリパッドに近い地域で約4・7倍に増えた。

 キャンプ・ハンセンで実施していた県道104号越え実弾射撃訓練は移転の97年まで年平均で1742発だった。県外5カ所へ移転後、訓練1回当たりの発射弾数は約4倍、年平均は約2倍に増えている。

 陸上でのパラシュート降下訓練について、SACO合意では伊江島に集約すると定めた。米軍は伊江島で自由度の高い状態で降下訓練を実施する一方、嘉手納基地内でも「例外」と主張し繰り返している。海上での降下訓練も地元の意向に反し、うるま市の津堅島訓練場水域で常態化している。

大田県政後「前のめり」 玉城知事は検証方針

 1996年以降、五つの県政がSACO最終報告に向き合ってきた。当初の大田昌秀知事は大部分が県内移設を前提としていることから「厳しい状況だ」と否定的だった。その後の県政は実現に前のめりになっていく。玉城デニー知事はSACOの検証を重視する姿勢を打ち出している。
 革新の大田県政から、保守の稲嶺県政に変わるとSACO合意に対する姿勢は肯定的になった。それでも「地元市町村の意向」や「県民の理解と協力」を前提としていた。後継の仲井真県政も踏襲した。
 ところが、辺野古新基地建設に反対する「オール沖縄」の枠組みから誕生した翁長県政は「基地の整理縮小と地元の振興につながる」と評価し、前の2知事以上に前のめりだった。
 現在の玉城県政も同様で、辺野古新基地を除くSACO合意の内容を肯定している。一方、玉城知事は日米両政府に沖縄県を加えた話し合いの場「SACWO(サコワ)」を提唱し、合意内容の検証を訴えている。