32軍に沖縄出身者278人 司令部の「留守名簿」判明 8割が軍属、民間徴用の多さ示す


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第32軍司令部(球第1616部隊)留守名簿の表紙(沖本富貴子氏提供)

 沖縄戦で日本軍を指揮した第32軍司令部(球第1616部隊)が1944年に作成し、戦後に復員庁が生死を書き加えた「留守名簿」が3日までに公開された。それによると、将兵や軍属ら1029人の氏名が記載され、沖縄県出身者は278人に上り、都道府県別で最多だった。県出身者のうち軍属は8割を占めた。沖縄戦研究者の吉浜忍元沖縄国際大学教授は「32軍司令部に所属する将兵らの内訳はこれまで明らかになっておらず、極めて史料的価値が高い。32軍司令部の実態解明の糸口となる史料だ」と指摘した。

 沖縄大学地域研究所特別研究員の沖本富貴子さん(70)が請求し、入手した。吉浜氏によると、第32軍司令部の留守名簿公開は初という。

 1944年11月に出された陸軍省の「留守業務規程」に基づき、日本国内外に展開していた各部隊が留守名簿を作成した。沖縄の各部隊の留守名簿は44年末から45年初めにかけ作成された。名簿には、部隊への編入年月日、生年月日、本籍、留守担当者、続柄、氏名、徴集年などが記載されている。戦後、復員庁が生死などを追加した。

 本紙が確認したところ、留守名簿には将兵や軍属ら1029人の氏名が記載されていた。このうち沖縄県出身者は278人で、このうち兵士は54人、それ以外の軍属が219人。残り5人は未記載だった。軍属が8割に上り、兵士よりも民間人が多く徴用されたことが読み取れる。

 「筆生(ひっせい)(事務員)」や「傭人(ようにん)」などとして、県出身女性も数多く記載されていた。鉄血勤皇隊員として、司令部壕にもいた大田昌秀元県知事の名前もあった。

 留守名簿の1029人のうち、「戦死」と記された人は692人に上った。このうち、45年5月、首里から摩文仁に司令部を移した南部撤退後に死亡した人は600人。6月20日の死亡月日がピークで、県出身者の兵士や軍属らの死亡月日も20日前後に集中していた。

 吉浜氏は「『捨て石』の持久作戦の南部撤退で犠牲を拡大させたのは、住民だけでなく兵士らもそうだったと言える」とし、死に至るまでの状況などの解明がさらに必要だと指摘した。

(中村万里子)

<留守名簿>1944年11月に出された陸軍省の「留守業務規程」に基づき、日本国内外に展開していた各部隊が作成した。名簿には、部隊に所属する人の部隊編入年月日、生年月日、本籍、留守担当者、続柄、氏名、徴集年、役種、兵種などを明記。沖縄に配備された第32軍司令部は、沖縄の各部隊の留守名簿を44年末から45年初めにかけて作成した。戦後、名簿を整理・保管した復員庁留守業務局調査課に引き継がれ、各軍人・軍属らの生死の有無などを調査し、名簿に記した。後に厚生労働省に引き継がれ、保管されていたが、2012年から順次、国立公文書館に移管された。