沖縄では軍事戦略を優先 60年代に米軍化学兵器庫増設を検討 「民意」で計画を阻止


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美里村(現沖縄市)登川で開かれた毒ガス撤去を求める区民集会=1970年(国吉和夫氏撮影)

 1960年代に米軍は、国際的に使用が禁じられていた毒ガス兵器を沖縄に持ち込み、さらに化学兵器を貯蔵するための弾薬庫を県内各地に増設することを検討していた。琉球大名誉教授の我部政明氏は「沖縄以外の地域では化学兵器に対する反発を考慮していたが、沖縄では軍事戦略を優先していた」と指摘する。

 県内での弾薬庫増設計画は、米軍側が沖縄統治に政治的な問題を引き起こすと危惧し、立ち消えとなった。我部氏は「米軍の強硬政策に対する、沖縄住民の反発がより高まると予想したのだろう」と分析した。

 毒ガス移送の歴史に詳しい明治大研究・知財戦略機構研究推進員の村岡敬明氏は、沖縄が太平洋地域で重要視された背景に、冷戦下で共産主義勢力をにらんだ戦略があったとしている。その上で「極東における、米国の軍事戦略の観点から、60年代後半に沖縄で弾薬庫の増設を検討したのだろう」と推察する。計画が見送られたことについて、村岡氏は復帰運動の高まりに注目し「沖縄での基地の維持が困難になることに(米軍が)警戒心を抱いていたと言える」と指摘する。

 69年7月18日に、米紙ウォールストリート・ジャーナルが「在沖基地でVXガスが漏れ、米兵ら25人が病院に搬送」と報じ、知花弾薬庫での毒ガス貯蔵が公になった。発覚後、直接選挙で初めて誕生した屋良朝苗主席を筆頭に、毒ガスの即時撤去で世論が一致。発覚から撤去までの2年2カ月の間、県民大会が開催されるなど、住民は一丸となって声を上げた。村岡氏は「沖縄の民意が在沖米軍の一方的な行為を防いだとも言えるだろう」と評した。

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