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「ご飯を作るのは妻だから」に覚えた違和感 無意識の偏見、積み重ねないために…比嘉京子県議<「女性力」の現実 政治と行政の今>7


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

written by 吉田健一

「性別に関係なく人間として自立することが無意識の偏見をなくす第一歩となる」と語る比嘉京子氏=県議会

 「もし、10年早かったら挑戦しなかったかもしれない」。子育てが一段落した50歳の時、比嘉京子氏(70)は政治家としての道を歩み始めたが、周りは違った。「子どもが小さい」「夫の理解が得られない」。時機や家庭を理由に出馬を断念する多くの女性を見てきた。

 1950年、4人きょうだいの次女として石垣市で生まれた。父は獣医師から後に石垣市長を4期務めた故内原英郎氏。内原家は父だけでなく、祖父、曾祖父も石垣町の町議を務めるなど石垣市でも有数の政治一家だった。幼少時は安里積千代や瀬長亀次郎といった沖縄を代表する政治家の演説会に行くこともあった。

 八重山高校を卒業後、琉球大農学部に進学し、研究者としての人生をスタートさせた。専門分野は栄養化学。大学を卒業後、沖縄女子短期大学で臨時講師を務める傍ら、琉球大の大学院に進学し、研究に没頭した。修了後には教員として沖縄キリスト教学院大や県立浦添看護学校、愛媛女子短期大など県内外のさまざまな大学、専門学校を渡り歩き、栄養士から保育士、看護師、介護士など多くの人材を養成した。

 順調にキャリアを積む中、30歳の時に結婚し、3人の息子に恵まれた。しかし、身内の多くが石垣にいることもあり子育ては夫婦二人三脚だった。当時、非常勤という業務形態ということもあり、産休、育休は取れなかった。そのため、「3人とも長期休暇がある夏休みに計画的に出産した」と笑いながら当時を振り返った。

 2000年、転機が訪れる。本土の大学での単身赴任を終え、沖縄に戻ってきたタイミングで当時の社大党幹部から那覇市議選補欠選挙への出馬を打診された。悩みに悩んだ。夫には「27年間の教員生活で積み上げたキャリアを捨てていいのか」と難色を示された。しかし、その時、数年前の出来事が頭をよぎった。

 父が入院した際、病院で再会した介護福祉士となった教え子から「やりがいはあるが、この仕事を一生続けられない」と処遇の悪さを吐露された。長い間、人材育成に関わってきたが、教え子たちの多くは待遇が悪いまま働いている。その後も教え子から保育現場の処遇の悪さなどへの訴えが多く寄せられた。制度を変えない限り、人材は定着しないと痛感し、「最後は政治かな」との思いに至り、決意を固めた。

 04年には県議に転身。「人を大切にする政治」を信条に駆け抜けてきた。自身は「女性として不利益は被ったことはない」と言い切るが、政治家になった時機については子育てが一段落していたことが大きかった。だからこそ、子育て世代を取り巻く環境下では「政治との両立は難しい」と考える。さらに、社会の根底に横たわる「ジェンダー・バイアス」も女性の政界進出を阻む、見えない壁になっていると語る。

 政治家になる前、人工透析の患者に栄養指導をした際、男性からよく言われた言葉がある。「妻に教えてほしい。ご飯を作るのは妻だから」。言葉を聞く度に違和感を覚えた。

 言葉の背景には家庭内の教育がある。「例えば家事において女の子にはお手伝いをさせるが、男の子には頼まない家庭が多くみられる」。長年言われ続けることで無意識の偏見ができあがる。「一人一人が性別に関係なく人間として自立することで偏見をなくす第一歩となる」。その先に女性の政治参画がある。


 世界的にも遅れている日本の「ジェンダー平等」。玉城県政は女性が活躍できる社会の実現を掲げ、県庁内に「女性力・平和推進課」を設置しましたが、政治や行政分野で「女性の力」を発揮する環境が整わない現状があります。女性が直面する「壁」を検証します。報道へのご意見やご感想のメールは、seijibu@ryukyushimpo.co.jpまで。ファクスは098(865)5174。

 

 

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