満蒙開拓青少年義勇軍 酷寒の15歳 次々落命 坪谷さん 県出身少年らとの出会い証言


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1938年に那覇市波之上で撮影された満蒙開拓青少年義勇軍第1次壮行祈願(那覇市歴史博物館提供)

 1930~40年代、日本から旧満州(中国東北部)に治安維持や食糧増産を名目に送られた「満蒙開拓青少年義勇軍」。数え16歳から19歳の青少年らで構成され、沖縄県からも500人以上が渡ったとみられる。神奈川県在住の坪谷五光雄(いこお)さん(90)が2日までに琉球新報の取材に、義勇軍所属の沖縄県出身者について証言した。45年8月15日の終戦以降、寒さが厳しくなる中で命を落とした沖縄の少年たちについて「満州でどう過ごしたのか、知ってほしい」と語った。

 坪谷さんは父親と満州に渡った。45年8月9日、ソ連侵攻の動きを受け、父親と共に開拓村を離れて帰国しようとしたが、船に乗り遅れて父親と共に帰れなくなった。東京城鉄道自警村難民収容所に収容された。

 同8月下旬、収容所近くの鉄道で隊列を組み、整然と歩く一団を坪谷さんは見掛けた。桜の記章が入った帽子から、満州開拓青少年義勇軍だと分かった。

沖縄から来たと言う満蒙開拓青少年義勇軍の少年たちの終戦直後の様子について語る坪谷五光雄さん=2020年12月、神奈川県

 似た背格好の少年たちが前列を進んでいた。聞くと「この春、小学校を終えた。沖縄から来た」と答え、坪谷さんと同じ15歳だった。ソ連との国境に面する虎林などから北朝鮮経由で日本に行くと告げ、元気に敬礼して離れていった。

 2度目の出会いは、それから5~6日後の9月、真っ白な霜が降りた日だった。収容所の大人たちが騒いでいた。坪谷さんが確認すると、沖縄の少年たちが鉄道下にいた。12~13人が枯れ草を敷き、毛布をかぶっていた。「何か食べ物をください」。飢えと寒さで衰弱していた。暖を取るための火が起こされ、ジャガイモが火の中に入れられた。5分もしないうちに少年たちは食べ始めた後、悲痛な表情で言った。「みんな殺された」。いきさつを聞いても、少年たちは泣くだけだった。

 収容所に入るよう勧めると、少年たちは「元の村に戻る」と断った。力なく敬礼をし、東京城に向かって歩いていった。

 坪谷さんも東京城の別の収容所に移動させられた。そこで9月下旬、3度目の出会いとなるが、少年らは4人になっていた。氷点下ほどの気温の中、夏服のままだった。衰弱して会話もままならなかった。翌日、1人が亡くなった。残りの3人は体を寄せ合い、たき火の跡のそばにいた。大人たちに命じられ、坪谷さんは遺体を防空壕(ごう)に運んだ。

 食料やまきを少年3人に複数回運んだ。最後に言葉を交わしたのは10月下旬。坪谷さんは元の開拓村に戻ることになった。別れのあいさつで少年の肩に触れて「元気を出して」と声を掛けたが、返事はなかった。

 その後の3人の消息は分からない。坪谷さんは離れる際、赤十字マークを付けたソ連軍のコンテナ車を見掛けた。「医師から手当てされ日本に戻ってほしい」。少年たちが無事生き延びることを強く願った。

 坪谷さんは8年間の抑留生活の中で父親を病気で亡くし、53年に遺骨と共に帰国した。高速道路の整備に関わる仕事に就いた。忙しい日々を過ごしながらも、頭の片隅にいつも沖縄の少年たちのことがあった。

 2020年11月、少年たちとの出会いを沖縄の関係者に伝えたいと、本紙に手紙を送った。坪谷さんは取材の最後にこう語った。「あの戦争は、何のための戦争だったのか。少年たちは沖縄に残っていれば、死ななくてよかったかもしれない。戦争は二度としてはいけない」 (問山栄恵)

 満蒙開拓青少年義勇軍
 対ソ戦に備え関東軍の兵力不足を補うために1938年、日本政府は制度をつくり、数え16歳から19歳の青少年を対象に開拓民として満州へ移住させた。満州では満蒙開拓青少年義勇隊と呼ばれていた。発足から45年の敗戦まで満州に送られたのは全国で約8万6千人。沖縄県史によると、38年の第1次以降、43年10月までに県内から550人がいるとみられる。44年度分は100人が政府から割り当てられていたが、実際の人数は不明。最終的には県内から500~600人が送り出されたとしている。