南部の土砂採取「友を亡くした地、言語道断」 元兵士が辺野古埋め立て利用に反対


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米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古の新基地建設で、多くの戦死者が出た本島南部の土砂を埋め立てに使用する計画に反対する元日本兵の喜納政業さん=2020年12月24日、今帰仁村仲宗根

 米軍普天間飛行場の名護市辺野古の移設計画で、新基地建設で使用する土砂を本島南部地域(糸満市・八重瀬町)から採取する計画が持ち上がっていることに、沖縄戦を経験した元日本兵から反対の声が上がっている。日本軍第24師団通信隊の通信兵だった元立法議員の喜納政業さん(95)=今帰仁村=は「(南部地域は)多くの友達が亡くなった地だ。(米軍基地に使うのは)言語道断だ」と憤る。

 喜納さんは1944年10月に入隊し、糸満市与座付近にあった通信隊に配属された。所属する第24師団は45年6月、糸満市宇江城の自然壕「クラガー」を拠点に日本軍最後の抵抗を試みた。喜納さんら一部の兵隊には、急造爆雷を抱えて敵戦車に飛び込む切り込み命令が下った。だが壕から飛び出す直前に、米軍の火炎放射器が火を噴き、入り口が爆破されたため、作戦は中止となった。火炎放射器の炎を浴びた仲間の兵隊は、目の前で悲惨な最期を遂げた。

 米軍に追い詰められた24師団司令官は同年6月30日、兵隊らに解散命令を出して自決した。喜納さんは壕から脱出して、沖縄出身で同年代の兵隊と一緒に摩文仁の海岸へ向かった。辺りは住民や兵隊の死体だらけだった。米軍の防衛線を突破して本島北部へ脱出することを画策したが、与那原街道付近で米軍に捕まって戦いを終えた。同じ師団通信隊の初年兵は120人ほどいたと記憶するが、生き残ったのは喜納さんを含む2人だけ。「同級生はほとんど帰ってこなかった」と述べ、目を赤くした。

 沖縄防衛局は新基地建設に向けて、県へ提出した設計変更の申請書に、土砂採取地として南部地区を含む7地区9市町村と記載した。戦没者の遺骨が含まれる可能性のある、南部の土砂を米軍基地に使うことに「戦没者への冒涜(ぼうとく)だ」と、批判の声が上がっている。喜納さんも「戦争につながるものは何でも反対だ」と語気を強め、南部の土砂採取を非難した。

(梅田正覚、西銘研志郎)