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拙速な新型コロナ特措法の改正議論 根回しの日本政治文化、森氏発言の背景にも 忍び寄る報道規制の枠 〈メディア時評〉


この記事を書いた人 Avatar photo 滝本 匠

 あれから10日。会長辞任で山は少し動いたものの、「モリなるもの」を変えることができるかどうかはこれからだ。だからこそ、記録に残す意味でも、継続した報道のためにも、あえて取り上げておきたい。

 恣意的な処分可能

 新型コロナ特措法の議論はいつも拙速だ。おおもとのインフル特措法の時は当時の野党・自民党が審議拒否したし、昨年のコロナウイルスを法対象に加えた改正は、議論もなくなぜ必要だったか分からないまま決まった。そして今回もまた、国会での実質審議はほとんどなく、法案の「修正」は審議開始前の水面下調整で終わってしまった。
 しかもいつもながらではあるが、立法事実である罰則が必要な具体的な事例は最後まで不明であった。運用の場合の適用基準も国会では明らかにされず、今後政令に委ねるということで、与野党が納得するという気持ち悪さである。さらに、緊急事態宣言前の自粛要請といった私権制限の適用解釈が、そもそも間違っているという指摘を無視したままだ。
 にもかかわらず、「蔓延(まんえん)防止等重点措置」を積み重ねたために、さらに曖昧な形で恣意的(しいてき)な行政処分が可能になってしまった。言葉が要請から「命令」にかわり、日常の生活や行動が一方的に制約され、違反すると罰金が課されるのに対し、刑事罰でないからよい、という問題ではない。
 感染症の罰則化も同様だ。専門家からは、従来罰則がなかった経緯、とりわけハンセン病患者の社会的隔離をした歴史的反省、実際に感染者を拘束し取り調べ起訴することができるのかという物理的な非合理性が数々指摘されたが、こちらも国会での議論はほぼゼロだった。そして、「落としどころ」として、こちらも刑事罰を回避して行政罰とすることになったが、疑問点が解消したわけではない。
 こうした、裏の根回しで事を決め、表の会議は通過儀礼という、日本の政治体質が、時を同じくして別の場面でも問題になっている。森喜朗・東京オリパラ組織委員会会長(当時)の時代錯誤だ。女性蔑視発言もそうだし、そもそも「対話」を拒否する姿勢や、上意下達の場で意見して恥をかかせないわきまえを押し付けるさまは、その後の釈明会見でも一貫していた。
 仮に、すごい実績がある選手で、その試合でも良いプレーをしていても、悪質な反則をすれば一発退場だ。レッドカードを示されても居直っていたものの、ビデオ判定で渋々グラウンドを去ったということになるのだろう。この間、反則を黙認し再発防止策を取る気が見られなかった、スポーツ界の闇は深そうだし、意思を示さなければいけないのは、オフィシャルスポンサーとして大会を支える多くの新聞社も同じだ。

 取材に深刻な影響

 ここでは、こうした議論なき法改正によって、さまざまな歪(ひず)みが現れる一例として、取材の自由への影響を指摘しておきたい。
 感染症法の改定に関して言えば、保健所等が行う行動履歴調査(積極的疫学調査)に協力しない場合に命令を発し、従わないときは行政罰として過料が科されることになった。この意味するところは、記者が感染した場合、誰に会ったかをすべて行政機関に開示することが強制されるということだ。
 これは、取材源をすべて明かすことが義務化され、違反すると罰せられるということで、報道機関の対応が問われることになる。従来、誰に会ったか、どんな情報を入手したかは、高位の報道倫理として会社の上司にすら言わないこととされてきた。また裁判所も、法廷における証言拒否権として職務上の秘密の保護を認めてきた経緯がある。
 法律でも個人情報保護法では適用除外として、報道目的で秘密裏に個人情報を収集することを特例的に認めている。こうした特例を、今回は認めないと読めるわけで、万が一、調査にうそをついて会った人を隠していて、のちに濃厚接触者として発覚したならば、大きな批判の先が報道機関に向かうことになるだろう。
 以前の立法では、ストーカー規制法や、不十分ながらマイナンバー法などで、前述の保護法のような例外規定を設けていたが、近年の法律では、おそらく意図的にこうした特例条項を設定しない傾向がある。たとえば盗聴法の改正でも、記者の通話を除外する声は聞き入れられなかった。ドローン規制法でも報道機関の要望は聞き置くかたちになったままだ。いわば、裁量権は公権力側が保持したままで、報道機関が「おこぼれ」として特別扱いを受ける可能性が残されているに過ぎない。こうしたところから、政治とメディアの力関係は決まってくる。

 命令対象にメディア

 同様の問題は、特措法改正の命令・罰則も同じだ。従来の法枠組みで、NHKは指定公共機関として首相や知事の命令に従う努力義務があった。蔓延防止段階ですら命令違反が罰則化されたなかで、宣言下における命令に反して報道の自由を守ることは、より困難になったと考えるのが普通だ。実際、そうした場面になったら、罰則をちらつかせることになるに違いない。
 念のために付言すれば、この対象はすぐにでも民放や新聞、ネットメディアにも拡大可能だ。これはそもそもの法構造として、命令の対象にメディアを入れていること自体に問題があるわけで、改正の議論は、平時においてこうしたことを議論するべきものだろう。
 実際、こうした報道規制の枠組みは、もうすぐ始まるワクチン情報に使われそうな雰囲気だ。政府は、担当大臣や官房長官が記者会見で公式に、報道自粛を要請した。輸送の日時・場所を非公開とし、その情報を入手しても報道してほしくないということだ。ただでさえ情報の開示に後ろ向きな現政権が、あえて隠しますと宣言した場合、都合の悪いことが隠蔽(いんぺい)されると考えるのが常識的な判断だろう。
 私たちの知る権利が、じわじわと狭まっている今、それを跳ね返す役割と社会的責任が、新聞をはじめ報道機関にはある。
 (専修大学教授・言論法)
 (第2土曜掲載)

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 本連載の過去記事は本紙ウェブサイトのほか、「見張塔からずっと」と新刊「愚かな風」(いずれも田畑書店)でも読めます。