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「自分は何人か」 日本と韓国の「はざま」で葛藤の日々 キリ学・短大学長 金永秀さん<ここから 明日へのストーリー>上


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
現在に至るまでの思い出を語る沖縄キリスト教学院大・同短期大の金永秀学長=西原町翁長の同大

 2000年、大学の採用面接を受けるため初めて訪れた沖縄。移動中のタクシーで運転手に在日コリアンであることを告げると、「友人だ」と目の色を変え喜ばれた。ウチナーンチュの運転手いわく、以前いた「本土」で日本人にいじめられ、支えてくれたのが在日コリアンだったという。降りる際に握手まで求められたことが、沖縄での最初の思い出になっている。

 昨春、沖縄キリスト教学院大学・同短期大学=西原町=の学長に就任した金永秀(キムヨンス)さん(64)。兵庫県で生まれ育った在日コリアン2世で、国内外で神学を学び、00年に同大に採用された。「第一言語は関西弁」と笑ってみせるが、その半生は「在日」であるがゆえの差別を前に、「自分は何人(なにじん)か」と自問する日々でもあった。

 両親は日本の植民地下にあった韓国・大邱(テグ)の出身。父は農家を志したが、日本併合後の「土地調査令」で一家は土地を失う。父は1935年ごろに日本語を勉強するため関西に渡り、母も後にやってきた。

 終戦後、朝鮮半島の日本との玄関口・釜山ではコレラが流行。大韓民国の建国(48年)初期の日本との国交のない状況や朝鮮戦争勃発も重なり、帰郷できない多くの朝鮮半島出身者が日本に残った。父は歯科技工士の資格を取り働くようになった。

 幼い頃から、金さんには日本名が与えられた。本名でいじめられないようにとの両親の思いからだった。だが幼少期には、近所で一緒に遊んでいた友達の父親から「朝鮮人帰れ」と罵声を浴びたことがある。「朝鮮人・韓国人というだけで見下されることが当たり前で、露骨な時代だった」
 それからも、同級生に「お前、朝鮮人やったんか」と度々からかわれることがあった。おのずと、自分のルーツを意識し始めるようになっていった。

 義務教育であるはずの中学に入る直前には、入学予定の学校の校長から手紙が届いた。韓国人に入学資格はないが、温情で許可する―。信頼していた父の口から決してうまくはない日本語で、内容を聞かされたことが今も記憶に焼き付いている。

 就職にも壁があった。国籍が問われ、一流大学を出ても地元の町工場などで働く在日コリアンの先輩は多かった。手に職をつけようかと考えていた高校3年の頃、熱心なクリスチャンだった父から「牧師を目指すなら学費は出す」と言われたことが、その後の人生を決定付ける転機になった。

 四国のキリスト教系の大学を卒業後、82年から3年間、韓国に留学した。片言しか話せなかった韓国語を、「説教」できるほどに高めるためだった。
 だが、「韓国人」のはずの自分と韓国の人々とが、言語だけではなく意識、感覚、習慣、文化の面で違いがあることに気付く。「日本で育った自分には、カルチャーが違った。それはおそらく、ウチナーンチュがヤマトで感じることや、多くの帰国子女の受ける感覚とも重なるのではないか」

 日本と韓国の「はざま」に生きる自分は何者なのか。その後、国内外で多くのマイノリティーと出会う金さんは、学びや牧師の活動を通じて自分自身を見つめることになる。 (當山幸都)