原発事故に奪われたもの、守り抜いたもの 茨城から沖縄へ避難の久保田さん<刻む10年 沖縄から、被災地から>4


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福島第1原発事故から10年に合わせ、写真展を企画する久保田美奈穂さん=2月26日、那覇市若狭の不屈館

 2020年9月30日。久保田美奈穂さん(41)は那覇市の自宅で、パソコン画面を見詰めていた。画面に映るのは宮城県にある仙台高裁前。やがて画面越しの男女3人が「勝訴」「再び国を断罪」と記された紙を広げた。「全国のみんな、勝ったよ」。現地の喜ぶ声が中継で流れた。国と東京電力を相手に福島第1原発事故の責任を問う「生業(なりわい)訴訟」の結果を聞き、沖縄支部原告代表の久保田さんから涙がこぼれた。

 原発事故が起きるまで、久保田さんは茨城県水戸市で、夫と当時6歳と1歳の息子たちの一家4人で暮らしていた。原発事故後、茨城でも放射性物質が検出されると、健康への不安は膨らんでいった。6月には母子3人で沖縄に避難した。

 13年3月、生業訴訟は損害賠償などを求め、全国各地の被災者が提訴した。原告約3800人のうち沖縄県内は約70人で、久保田さんも加わった。子どもたちを守りたい。暮らしを一変させた国と東電の責任を追及し、原発事故を二度と起こさせない。生活を奪われた当事者として、当然の思いからだった。

 ところが、反応は予期せぬものだった。「福島県の出身者でもないのに」「茨城の人間が、なぜ避難する必要があるのか」。そんな冷たい言葉を投げ掛けられた。避難生活を巡る考え方が夫とは異なり、2014年に離婚した。

 「子どもたちを守る」は揺るがぬ思いだ。でも、将来を思うと、やはり不安でたまらない。そんな時、沖縄県内のほかの避難者や支援者、生業訴訟の全国の原告たちが励ました。福島にとどまり、裁判を続ける仲間からの温かい言葉が、久保田さんを幾度も立ち上がらせた。

 仙台高裁の判決の日、東北や東京、大阪、福岡など、全国各地の原告はオンライン会議「ズーム」でつながっていた。久保田さんはコメントを求められ、感謝の言葉から伝えた。

 「同じ原告なのに大変な負担を掛けてきた。引っ張り続けてくれて、ありがとう。国と東電はお金で人の心を惑わせ、分断しようとしている。どんなに苦しく、つらくても原告団の心は奪われない」

 変わったようで変わらない。でも、必死だった。日々、新たなつながりが育まれているとも実感している。久保田さんは10年をそう振り返った。

 沖縄が直面する不条理にも気付いた。沖縄の民意を無視し続け、強行される米軍基地建設と原発を巡る構図が久保田さんの中で重なった。知人をつてに紹介された、米統治下で圧政と闘った故瀬長亀次郎さんの資料を展示する「不屈館」で説明員として働いている。

 10年の節目に合わせ、久保田さんは原発事故や生業訴訟を伝える写真展に向けて準備中だ。願いを込め「つむぐ ~沖縄と福島~」と写真展の題名を付けた。「祖先が願った平和で幸せな未来、志半ばで逝った方の思い。各地でさまざまな問題があり、それに立ち向かう人々の願いが紡ぎ合い、1本の糸になる。一人一人が大切にされる世の中になるまで途切れず、すてきな世の中を織りなせたら」 (島袋貞治)

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 写真展は24~27日の午前10時~午後6時、那覇市久茂地のブックカフェ&ホール「ゆかるひ」で。問い合わせは、ゆかるひ(電話)098(860)3270。