突然告げられた沖縄移住 原発事故で状況一変 福島県矢吹町出身・根本匠さん(上)<15の春>1


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「時間がたてば危機感は薄れる。自分の経験を通して防災意識を持ってもらえたら」と話す根本匠さん=2月、那覇市泉崎の琉球新報社

 福島県矢吹町出身で那覇市に住む根本匠さん(25)。那覇西高校を卒業し大学は台湾へ。観光業を学び現在は、県内企業で観光業に携わる。10年前に東日本大震災を体験した。聞かれない限り積極的に話すことはしていない。当事者と非当事者の隔たりを感じ、話すのを諦めたときもあった。けれど「自身の経験を通じて防災意識を持ってもらえれば―」と願う。沖縄に移り住んだきっかけは、大震災だった。

 「高校は離れるけど地元は一緒。また会える」。2011年3月11日、矢吹町の中学校で卒業式が開かれた。卒業生の根本匠さんは友人たちとの再会を信じ、特別な言葉を交わす機会もなく、つぼみを付けた桜の木が並ぶ校舎の坂道を下り、学びやを後にした。状況が一変したのは数時間後のことだった。

 午後2時46分。根本さんは母と中1の弟とガソリンスタンドにいた。経験したことのない大きな揺れ。近くの道路には地割れが走り、破裂した配水管から水が吹き出した。急いで自宅に戻り、愛犬の無事を確認。程なくして、テレビで津波の映像が流れた。矢吹町は県中央部の中通りと呼ばれるエリアにある。津波は押し寄せなかったが、沿岸部を襲った津波や原発への影響を心配する大人たちの話し声が聞こえてきた。地割れででこぼこになった道を自転車で走り、小学校にいるもう1人の弟を迎えに行った。

 翌12日、東京電力福島第1原発1号機の水素爆発が報道された。「純粋に怖い」と思った。13日には母の指示で東京に避難。繰り返される原発のニュース。「死の危険にさらされているのに大丈夫とだけ言われるのはおかしい」。1カ月ほど東京で過ごした後、福島に戻り、矢吹町の高校に進学した。教室の中では震災の話題が上がることはない。震災の出来事を感じない日常を過ごした。

 母から突然、沖縄移住を告げられたのは高校1年の終わり頃。放射能の情報が交錯する中、子どもの健康を第一に考えた決断だった。母は仕事を辞め、頼る先もないまま沖縄での生活が始まった。母は持病のめまいがひどくなった。

(関口琴乃)

 

続きは>>根元匠さん(下)「震災の体験を伝えたところで…」それでも継承する理由

 


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 岩手県出身で15歳の頃に東日本大震災を経験した本紙記者が同期生を訪ね、ともに10年を振り返る。震災をどう受け止め進学や就職、結婚などその後の進路にどう影響しているのか、若者の今を聞く。