突然告げられた沖縄移住 原発事故で状況一変 根本匠さん(上)から続く
東日本大震災を福島県矢吹町で経験し、高校2年の4月に那覇西高校に転校した根本匠さん(25)=那覇市在住。転入当初は、福島出身と言うと「放射能が付いている」などと根拠のないことを言われるのではと思い、あまり人と話したくなかった。だが、クラスメートは「大変だったね」と迎えてくれた。積極的に話し掛けてくれる友人もいて、うれしかった。元々学校嫌いなところがあったが、次第に打ち解け、友人たちと自宅で“ゆんたく”するようになった。福島で通っていた学校でも家庭内でも、震災の話題が上ることはなかった。
広がった視野
沖縄でも話すつもりはなかったが、学校では震災の体験を聞かれる機会があった。福島で体験した地震については何でも正直に話したが、相手に伝わったのかは分からなかった。「福島出身と言うと『大丈夫だった?』と聞かれる。中にはあいさつのついでに聞かれるときもあった」。当事者と非当事者の隔たりを感じる経験だった。
2012年の夏、岩手、宮城、福島の被災3県の高校生を対象にした留学プログラムに応募し、参加した。米国カリフォルニアで地域貢献と問題解決の方法を学んだ。それぞれの被災体験も共有した。多様性に富んだカリフォルニアの街や同世代の堂々とした表現力や行動力に感化された。「一気に視野が広がり、控え目な性格も変化した。震災を機に海外を知った体験は、人生を変えるきっかけになった」
帰国後、自分にできることをしようと、震災の出来事をまとめた防災マップを作成した。絵が得意な友人が地図を書いてくれた。手伝ってくれるクラスメートたちも徐々に集まった。言葉よりも写真で伝える内容に仕上げ、高校の文化祭で展示した。防災マップにどのような反響があったかは分からなかったが、何か行動を起こせたことへの達成感はあった。
現在も自身の震災体験を積極的に話そうとはせず、関心のある人に聞かれたら答えるスタンスをとる。「震災の体験を伝えたところで…」と話すのを諦めたときもあったが、それでも震災の経験を伝える理由は「突然起こる災害への心構えを持ってほしいから」。
ここから
生まれてから15年を福島で過ごした。福島県白河市を中心に供される白河ラーメンや新鮮な桃などは、幼い頃からの思い出の味として記憶に残る。お気に入りの場所は矢吹町の大池公園。小学1年の頃からアウトドア活動をする団体に参加し、公園内でキャンプをした。夏は猪苗代湖でバーベキュー、冬は会津のスキー場でスノーボードを楽しんだ。自然に囲まれた暮らしを気に入っていた。
震災当時は携帯電話を持っていなかったため、沖縄移住を機に途絶えた友人とのつながりもある。さみしい思いもしたが、大人になった今、勇気ある母の決断をこう振り返る。「あの時は子どもで、住む場所など自分で判断できなかった。母が導いてくれて良かった」
高校卒業後は台湾の長栄大学で観光を学び、現在は県内の企業で観光業に携わる。人のために動くことが苦にならない性格だという。「福島に住み続けていたら、米国留学で出会った仲間と一緒に震災の経験を生かした活動ができたのでは」と思う時もあった。だが「自分がどこにいても、震災の体験は忘れてはいけない」と、沖縄の地から東北の復興に関わる糸口を探し続ける。「被災した地域は仲間だと思っている。福島だけでなく、東北人として東北を盛り上げることが夢の一つだ」。しっかりとした口調で話す根本さんの東北を思う気持ちは、静かに燃えている。
(関口琴乃)