8日に亡くなった金城雅春さんはハンセン病を巡る差別の解消や、国の隔離政策の責任を問う裁判などに力を尽くした。雅春さんの突然の死に、県内のハンセン病回復者らには衝撃と悲しみが広がった。
2000年の国賠訴訟で雅春さんらと県内最初の原告になった金城幸子さん(80)は「体が引きちぎられたよう」と声を絞り出した。共に啓発に取り組み「弟」「姉さん」と呼ぶ間柄だった。新型コロナの影響でここ1年は会えず、最後に電話で話したのは一昨日。「私を見送るまで僕は死なないよと冗談を言ったのに」とむせび泣いた。
雅春さんは持病を抱えながら自治会長として全国を飛び回った。元患者で沖縄ハンセン病回復者の会共同代表の平良仁雄さん(81)は「自分の体も顧みず一生懸命だった。退所者も含め、私たちの柱を失った。先を閉ざされたような気持ちだ」と吐露した。県内の回復者男性は「社会を変えようと、粉骨砕身で働いた。最後に笑顔を見たかった」と声を詰まらせた。
15年に開館し、ハンセン病を巡る諸問題を伝える「沖縄愛楽園交流会館」にも携わった。同会館学芸員の辻央さん(42)は資料編集やイベントの企画などで「ハンセン病に関する問題を外部に幅広く広めようと取り組んだ」と振り返る。突然の訃報に「大きな後ろ盾を失った。これからやりたかったこともできず、悔しかっただろう」と悼んだ。
障がい者の社会参加などを支援するNPO法人県自立生活センター・イルカの長位鈴子代表(58)は「障がい者差別解消は愛楽園から出発した。ハンセン病差別の根深さや、入所者の苦しみを伝える貴重な存在だった」と惜しんだ。