見える復興、見えない葛藤 あの日を生き抜いた責任<東日本大震災・記者が振り返る10年>


この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子
閉校した母校。地域の中心的役割を持つ学校がなくなり、住民同士のつながりも希薄に=3月2日、岩手県宮古市

written by 関口琴乃

 東日本大震災の発生から一夜明けた12日、岩手県宮古市。流れ着いたがれきをよけ、くぎを踏みながら、津波の水が引いた町を歩いた。黒い泥に覆われた町はヘドロの臭いが漂う。足元には布で巻かれた何かがあちこちに横たわっていた。「死体か」。非現実的な光景を前に私の心はまひしていた。「ははは、すごいことになってる」。目を背けたくなるようなありさま。悲しいはずなのに涙は出ない。代わりに漏れたのは、感情を失った笑いだった。2011年3月13日付の琉球新報社会面の見出しは「遺体次々 泥の廃虚」。当時15歳だった私が見た光景そのままだ。

 あの日から約10年後となることし3月2日、10年前に震災を体験した宮古市を訪れ、当時と同じ避難ルートを歩いた。高台までは自宅から歩いて5分。息を切らしながら坂道を上った。あの日と同じ場所に立って辺りを見渡すと、そこには記憶に残っている風景があった。枯れて茶色くなった草木が背丈まで伸び、津波が襲った湾岸沿いの視界を遮っている。草木の隙間から遠くを見ると、閉伊川(へいがわ)にかかる宮古大橋と新川町が見える。その場所から津波が見えたはずだが、私は見なかった。あの日と同じ、ぴりぴりと肌を刺す乾いた風が吹いた。

 高台から見える新川町には市役所があった。閉伊川河口付近の堤防を越えた津波により、7階建ての庁舎は2階まで浸水した。18年、約1キロ離れた宮古駅の近くに移転した。閉伊川に架かるJR山田線の鉄橋も波に押されて崩壊したが、修復された。宮古―釜石間が三陸鉄道に移管され、リアス線(盛―久慈、163キロ)として全線開通した。宮古橋から見た閉伊川は、人々の命や財産を奪ったとは思えないほど穏やかで、水面(みなも)がきらきらと光っていた。

震災当時、高台にある神社の境内にも多くの住民が避難した。奥には、完成すれば国内最大級となる閉伊川水門の建設現場が見えた=2日、岩手県宮古市

 仮設住宅が撤去された公園に子どもたちの笑い声が戻ったかと思えば、震災後に加速した過疎化の影響で子どもの声が消えた地域もある。私が通っていた小学校も20年3月末で閉校になった。遊具が取り払われ、誰も踏まなくなったグラウンドは枯れ草に覆われていた。町の高齢化が進み、自治会が崩壊している地域もあると聞いた。共助できる人とのつながりが失われつつある。小学校の周辺地域も時が止まったように静かで、道中誰とも会わなかった。

 新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、沖縄県は3度目となる独自の緊急事態宣言を出した。その宣言が明けてすぐ、宮古へ向かった。いつもなら実家に泊まって家族と過ごすが、母が医療従事者のため市内のゲストハウスに宿泊した。午後9時半、大通りには人通りがなくなった。明かりも少なく、余計にさみしさが増した。

 建物やインフラの整備など、一律に進んだ「見える復興」もあったが、年月だけでは測れないものもある。「人々の心の変化は形として見えない」。読谷村出身で、宮古市で暮らす高橋晃さん(61)=旧姓上地=の言葉が頭に浮かんだ。被災経験や居住地、経済力などの状況によって、歩みの速度は人それぞれであり、消えぬ葛藤もある。

 私は大学進学を機に沖縄に移住した。この10年のうち、震災後の宮古市よりも沖縄で過ごした時間の方が長くなった。地元の歩みを肌で感じることはできないが、年齢を重ねるにつれて津波から逃れ、生きている者としての責任を考えるようになった。

 もしも今、東日本大震災と同規模の災害が沖縄で起きた場合、人々の生命や財産を守ることにつながる防災報道は、十分にできているのか。震災経験者として得た教訓を沖縄にどう伝えられるのか、琉球新報の記者として考えていきたい。

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 未曽有の大災害から10年。琉球新報はこの間、延べ20人以上の記者を現地に派遣し、主な取材先となった沖縄県出身者らの視点を通じて被災地の現実を伝え続けた。あの日から変わり、変わらないことは何か。現場の今を報告し、派遣記者が現場の変遷を振り返った。