「誰か来ない人がいたら…」怖かった久しぶりの登校 あっけない卒業式に涙<15の春>2


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
理想の宮古市を話し合うワークショップに参加した八島彩香さん(前列右)=2013年9月、岩手県宮古市(NPO法人みやっこベース提供)

 八島彩香さん(25)=宮城県在住=は岩手県宮古市の同郷で、幼稚園から中学校までの同級生だ。3月上旬、私は沖縄から岩手県を訪れた。10年ぶりに地元・宮古市で八島さんと再会し、育った地域を一緒に歩いた。2011年3月11日、東日本大震災が起きた時間帯は放課後だった。 (関口琴乃)

 「おめえら死にてえのが!」。大津波警報のサイレンが鳴っても自宅から動こうとしない祖父母に向かって、思わず声を荒らげた。当時中学3年生だった八島彩香さんは下校途中、立っていられないほど大きな地震に襲われた。「じいちゃんとばあちゃんを助けなきゃ」。避難を始める人を横目に海沿いの通学路を走って自宅へ戻った。「逃げるぞ!」。兄と一緒に避難を促したが、祖父母には理解してもらえなかった。

 町を覆う黒い泥水

 祖父は1960年のチリ地震津波を経験しているが「ここ(自宅)まで来なかったから大丈夫」と言い張った。「経験者なのになんで逃げねえのや…」。必死に説得し続け、ようやく玄関まで来たかと思えば靴を選び始めた。あまりにのんきな様子に腹が立った。「時間がない」。半ば強制的に祖父母を連れ出し、自宅近くの高台にある神社へ向かった。

 高台には避難者が約40人集まっていた。神社の境内からは宮古湾に注ぐ閉伊川が見えた。水位がどんどん上がり、堤防からあふれた津波は洪水のようにがれきや車を押し流しながら迫ってくる。その光景を怖い物見たさなわくわくした気持ちで見ていた。彩香さんの家も腰の位置まで浸水。「テレビもソファもだめだな…」。黒く濁った水が見慣れた町を覆っていくが、そこには不思議と冷静な自分がいた。「高台にいる人みんなでこの状況を乗り越えている」。東北の3月はまだ寒く、ちらちらと雪が降っていた。

 翌日、市内の中学校で勤務する両親を含む家族の無事を確認した。自宅1階は浸水したが修復すれば住める状態だった。掃除をしながら、しばらくは2階の部屋で過ごした。震災後、外の状況は変わってしまったが、家族と24時間一緒に居られるのはうれしかった。思春期で口をきいていなかった兄との会話も戻った。

津波によって墓地に流された車=2011年3月、岩手県宮古市

 落胆の涙

 中学ではテニス部に所属し、学年委員も務めた。卒業したら携帯電話を買ってもらい、高校では新しい部活動に入ることを楽しみにしていた。晴れやかな気持ちで卒業式を迎えるはずだった。

 当初より3日遅れの18日、卒業式が開かれた。「同級生で誰か来ない人がいたらどうしよう」。久しぶりの登校が怖かった。無事だった制服を着て、がれきの横を歩いて学校に向かった。体育館は避難所になっているため、会議室に集められた。式は点呼と合唱だけの約30分。先生や保護者のすすり泣く声が聞こえる。門出を祝ううれし涙よりも、震災を落胆する涙に感じた。「同級生と別れや旅立ちの気持ちを共有するはずだったのに…」。状況は分かっていたが、あっけなく終わった中学校生活に物足りなさが残った。


<記者のメモ>

 私も彩香さんも下校していたため、同級生がどんな一夜を過ごしたのかを知らない。彩香さんが避難した神社であの日の動きを聞いた。改めて、無事で良かったとほっとした。震災は、高校受験の緊張から解かれ、新生活に期待を寄せていた矢先の出来事だった。気持ちの切り替えが追いつかなかった。卒業式もどのような気持ちで臨めば良いのか分からなかった。当日まで、再会する人にどんな配慮が必要なのかを考えた。式中、周りにつられて涙が出る。自分でも何の涙なのか分からなかった。中途半端な門出に「こんなはずじゃなかったのに」と二度と帰ってこない15の春を嘆いた。