震えながらペンを走らせた 「節目」で終わりにしない<東日本大震災・記者が振り返る10年>


この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子

written by 前森智香子

 身が縮むような寒さを覚悟して外に出ると、想像より暖かい天気だった。ことし3月2日午後、仙台空港周辺の気温は12度ほど。レンタカーを借りる際、女性店員に「今日は暖かくて良かったですね」と話し掛けられ、東北に手加減してもらった気がした。10年前の3月11日は、震えながらペンを走らせた。

 2009~11年に福島県、13~16年は仙台市に住んでいた。東日本大震災を福島県郡山市で経験してから、毎年3月は宮城、福島に行くと決めている。8年続けていたが、新型コロナウイルスの影響もあって昨年初めて途絶えた。感染拡大は続いており、今年も迷いはあった。取材を快諾してくれた方々も、皆が感染の不安を口にした。沖縄県独自の緊急事態宣言が明けた3月、出発直前にPCR検査を受けて東北入りした。

 仙台空港は大津波に襲われ、甚大な被害を受けた。教訓を伝える「震災伝承施設」にも指定されており、ターミナルビル内には約3メートルの津波到達点を示す表示がある。多賀城市に向けて国道を北上していると、道路脇に津波の高さ表示が目についた。
 岩手、宮城県では道路や住宅などハード面の復旧はほぼ完了している。一方で、地域コミュニティーの再生などソフト面はまだまだだ。津波に自宅を流された岩手県陸前高田市の斉藤正彦さんは、高台移転で自宅を再建したものの、コミュニティー再生には時間がかかるとの見通しを示した。「隣近所の人たちのシャッフルが起きた。家はできても、にぎわいは少ない」と指摘した。

 東京電力福島第1原発事故の影響を受けた福島県の復興の道は険しい。廃炉作業の終わりは見えず、今も多くの住民が避難生活を続ける。震災時、双葉町に住んでいた70代女性は「土地だけじゃない。根付いた文化、伝統、習慣。多くの宝を失った」と訴えた。

 東北で取材していると、沖縄戦を引き合いに出す沖縄県関係者は多かった。どちらも後世まで語り継ぐ必要があるとの意見だ。復興は途上で、課題は複雑化している。10年が過ぎたからと、支援を断ち切ることがあってはならない。沖縄からも関心を寄せ、東北の現状を伝え続けたい。

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 未曽有の大災害から10年。琉球新報はこの間、延べ20人以上の記者を現地に派遣し、主な取材先となった沖縄県出身者らの視点を通じて被災地の現実を伝え続けた。あの日から変わり、変わらないことは何か。現場の今を報告し、派遣記者が現場の変遷を振り返った。